ラベル 教団紛争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教団紛争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2008年7月10日木曜日

実録 教団紛争史 第7章 クーデターと教師検定

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

 小林貞夫

1. 教団のねじれ
 圧倒的な暴力で、議場と言論を制圧した問題提起者は、次々と教団、教区、教会、関係諸団体、大学等を混乱させ屈伏させていった。
 特に教団執行部は彼らの主目標であったが、これをたたくことは一日で出来てしまったと言えるだろう。従って、1969年以降の三役たちは、造反者におもねるかの如き態度に終始した。何を行うにも、造反者の意向が先行した。戸田伊助教団議長の議場指揮では、議場で造反者に伺うような発言が度々あった。
 ところで、戸田議長になっても、常議員会や常設委員会は、以前の第15総会で選出された人がそのままだった。これらの人びとは、教団を代表するにふさわしい人々だった。常議員の中で、問題提起者への完全な同調者は、27人中3人だけであった。
 三役は造反だが、常議員会、常設委員会は全く違うという構図、いわゆるねじれ現象を呈していたことになる。
 第3章で示した九・一、二からの100日の表も、第5章で示した総会開催のための常議員会の表も、この原点を外して読むと理解出来にくい。
 1968年に選出された常議員会は形としては1974年まで続くことになってしまった。もっとも、後半期には、常議員会の凍結が論じられたり、辞任の申し出があったりで、殆んど機能しなかったが。常任常議員会は、嵐にさらされながらも、この期間は教規第37条の通りに運営され、教団をかろうじて支えるという役割を果した。
 島村亀鶴と大村勇、北森嘉蔵、森里忠生、長谷川保、秋山憲兄、小川清司の7名と三役とで構成されていたが、この顔ぶれでは、三役が造反に組しても、それが過半数にならなかった。
 そこで戸田議長は、常任常議員会を凍結した。

2. 教師検定でのクーデター
 常議員会と常任常議員会を凍結した戸田議長は、独断で教団を運営する形となった。この独断とは、造反派の主張に従うと同義であった。
 常議員会の責任である教師検定試験の実施や、COCにおける関係学校やキリスト教社会事業同盟との友好を放棄してしまった。
 第4章で、教団は会議制、信仰、伝道において崩壊したことを示した。が、ここでは形態としても崩壊し始めたことを示している。造反派から見ると、意気上る勝利であった。会議があったら暴れればよい。正論が主張され始めたらやじればよい。信仰の確かな人には暴力を加えてもかまわない。そうすれば思いが実現したのである。
 造反は目標を教団の崩壊に向けた。そのためには教師制度を破壊する必要があり、手始めに教師検定試験を破壊することを目指した。
 毎年50名を越える新しい教師が生まれることが、日本基督教団の当然であった。戦後二五年、神学大学など養成機関も、検定する教団も、受け入れる教会も、そう信じて疑わなかった。
 造反側はそこを徹底的に攻めることで、一つ一つ壊していった。勿論、抵抗があった。教会を守るというのは、教職にも信徒にも、信仰の基本を守ることになっていたので。
 ただ現実に教師が生まれてこないのは、大多数の教会、信徒にとって困ったことであった。何としても、という思いは共通であり、教師を生み出す必要のために、譲歩と妥協が重なった。
 いわゆる二重基準は、明らかな教憲違反であった。その経過については表として示したい。この経過も、クーデターだと理解すべきである。

3. 人事でのクーデター
 第18回教団総会(後述)では、議長以下の全役員の選出を行った。この時選ばれた常議員は次の通りであった。
 笠原金吾・菅原誠一・岸本羊一・入江清弘・辻宣道・小島一郎・山田守・大宮博・後宮俊夫・平山武秀・大塩清之助・鷲山林蔵・井上良彦・佐伯洋一郎・大島孝一・川端純四郎・深谷松男・浅野直人・橋本栄一・桐沢貞子・西原基一郎・貴田陽一・岡田正勝・兼松稔・尾崎政明・昆昇・遠藤修司。
 前回までの27名と一人も重なっていない。三役を含めて30名で構成する常議員会が、経験者を一人も持たなかったことになる。東京憎しや、経験者たちのやっていられないという気持ちを加味して分析しても、これも明らかにクーデターであった。文字通り教団革命であった。造反の次なる勝利でもあった。
 機関に選出された新人委員会が、すぐに相応の見解を示すことはむずかしいものであり、そっくり新人などということは、前例も、そして多分、後例もないだろう。教団は敗戦の前後でも、そうはしなかった。
 不慣れな常議員会が、造反派に圧倒されていった様を、花房譲次総幹事はこう言う。
「私はなぜ総幹事をやめたか。第18回教団総会で選ばれた常議員の顔ぶれを見て、これでまあまあやれると思った。これでなんとかいける、と思った。しかし一回二回と常議員会が開かれると、私の判断は甘かったということが分かった。討議され、いざ議決となると造反派の勝利となってしまう。なぜか。常議員の内訳は、3名のはっきりした造反、3名の福音派、三役を除いて21名は中間派であった。たしかにまわりでは造反派の人がいて叫んでいた。しかしそれにしてもおかしい。…」
 1972年から1974年まで総幹事だった花房譲次の、それにしてもおかしい、という痛哭の思いは、当時の生の事情を示している。
 ただその後の経過を見ると、常議員の半数は造反と造反派だったことになる。これは花房総幹事の見落としであった。

教師検定試験経過
月/日 主な事項 メモ
1969
10/6 検定試験中止(乱入者による妨害) 菅澤邦明らが、試験会場に乱入。答案用紙を破るなど、30分で中止になる。
1970
4/30 試験再開を公告 教団・教区の会議は困乱し続ける中で。
10/6・7 試験を延期。教師検定委員会全員辞任 小川貞昭委員長以下7名辞任。
1971
4/22 第29回常任常議員会で辞任を受理。7名の新委員を決定 小川貞昭委員長以下7名辞任。常議員の中より、菊池、大村、島村、柏井、宮崎、土岐、船本の7氏、後に松本、田中
7/3 検定委員会が「実施にあたっての見解」発表 「教師を生み出すことは、一刻も待てない」という主旨。
10/20・22 分散試験、面接試験によって、70年度分の試験を終了 集合して実施すれば、また、破壊されてしまうので。
11/25 71年度分試験も、レポートによる試験を加えて、同じ方式で終了 多くの反対見解が出されている中で、3年にわたって教師は生まれていなかった。
12/13 第37回常任常議員会で、書面決議。70・71年度分の合格者(84名) 常議員に手紙による承認かどうか、を問い、それによっての承認。
1972
1/1 春季試験公告 レポート形式で行う、という内容で
4/10 第40回常任常議員会で合格者の承認(38名) 検定委員会での判定は3月22日。
10/23・24 第25回常議員会、秋季試験合格者の承認(52名) 試験は10月3・4日に行った。
1973
3/22 第22回教師検定委員会(菊池委員長)73年度春季試験の合否判定 常議員会に承認を求めた。常議員会は対応出来ない。
6/9 秋季試験を公告 レポート形式による。
7/30 第26回教師検定委員会。秋季試験の合否判定 常議員会に承認を求めた。
9/1 第18回教団総会準備委員長戸田伊助、合格者承認に反対 上の承認申請を拒否したことになる。
11/29 戸田議長、菊池教師検定委員長、73年秋季試験合格者に「お詫びとお知らせ」を送付 「この紛争の中では認定することは出来ない」という内容。造反者と手を組んだ戸田議長の方針。
1974
2/4 教師検定委員会は、73年秋季合格者のすみやかな承認を戸田議長に要請 菊池委員長は四面楚歌の中で努力した。
2/13 同右の要請を拒否し「検定問題特別委員会」が設置される 問題提起者と三役が謀って、教師を生み出すことを否定する方向を目指す。
12/10・13 第18回教団総会、合格者の承認をしない 問題提起者の暴力による反対のため。重要議題としていたのだが。
1975
4/14・15 第2回臨時常議員会は「今後は制度的内容的にさまざまな立場の切り捨てが起こらないような方法で検定試験を行う」と決定。73年秋季試験合格者を承認 これが教師検定の質を崩壊させた。何でもかまわない、というのである。実施することとの抱き合わせ条件として、飲まされる形で。試験と承認が2年ずれている。
1976
2/13・15 第5回常議員会は「信仰告白を基準とし、教憲教規に基づいて実施する」と決議 第2回と第5回は両立しない。二重基準と呼びならされて来た。
2/25 教師検定委員全員(菅、大宮、市川、笠原、原、森田、横田)辞任新委員決定(後宮、大宮、笠原、佐伯、依田、岸本、辻) 二重基準では出来ない、という理由。各教区へ説明に行く。試験を急ぐように。二重基準は許せない。矛盾する声が高い。
25年間、二重基準のまま実施
2002
7/15・17 第32総会期第5回常議員会は「合同教会の豊かさの中で、教団信仰告白を基準として教師検定を行う」と決定。 検定試験については、文言上正常化した。正常化出来ない人は、他の面で教憲・教規違反をしている。

2008年5月10日土曜日

実録 教団紛争史 第6章 教団史の空白

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

 小林貞夫

1.揺れる三役選出

 教団正副議長表で示されるように、第15回教団総会は、鈴木、飯、木村の三役を再任の形で選出した。
 しばらくして、鈴木議長が体調をくずし、飯、木村で運営することになった。高崎副議長は常議員会での選出であり、責任を負ったり、活動をすすめる前に、九・一、二事件もあって辞任を申し出た。
 吉田満穂副議長がその後に選出された。このあたりからの三役表は乱れている。空欄もある。
 教団が組織であり、教務(牧師の辞就任や会堂建築など)を行っていたとすれば、空欄はない筈である。事務局としては、教団議長や副議長が、実質的には辞表を提出して執務しななっていても、従前のハンコをそのまま用いている。その意味では空欄ではない。
 ただ、造反者たちが押しかける会議は絶えず混乱した。どれが採決の結果かどうか判定出来ないような事態が再々起こっていた。結果があいまいな協議が多かったことになる。
 三役については、表のような実質で経過したことを理解する必要がある。その意味では、完全に行き詰まったのである。
 
'72年10月までの4年間で開かれた常任常議員会が44 回、常議員会が25回である事実一つを見ても、その困惑ぶりが示されている。(前回の表参照)
 吉田満穂副議長が選出され、後に議長になったことについては、二つの点を上げておきたい。一つは、非常に期待されての登場であった。最後の切り札という指摘を何回も聞かされた。事実経過もその通りになってしまった。以後は何も出来なくなった。
 二つは、東京以外の地域から選ばれた点である。それまでは、運営上の問題もあって三役は東京から選ばれていたからである。その点は今日まで続いていることになる。

教団正副議長
年・月 議長副議長 主な理由
1968・10 鈴木正久飯  清 15回総会の選挙 鈴木病気で飯中心
1969・7 飯  清 高崎 毅 鈴木死去 高崎はすぐに辞任申し出る
1970・2 飯  清吉田満穂 高崎辞任 吉田には期待集まる
1971・2 吉田満穂 ( 菊地吉弥)飯、引責辞任 菊地は代行
1972・8 (島村亀鶴) 吉田辞任申し出る 島村は代行
1972・10 (島村亀鶴) 決定する母体が不定 とにかく形だけ、と代行


2.各教区総会の困乱
 教団の困乱は各教区に波及していった。数の上では問題提起者は少数だった。が、教区総会を粉砕させたり麻痺させるには十分だった。
 マイクを持ち込み、ヘルメットで威嚇し、大声を出し続ければ、教区総会は休止せざるを得ない。良識的な教師や信徒が、暴力覚悟でこれと渡り合うなどということは出来なかった。
 会議は多くの場合中断する。再開するためには、大幅な妥協が必要となる。そうした妥協をした教区が多かった。中断したままだった教区もある。
 先に開かれた第16回教団総会には、5教区が総会議員を送れなかった程の困乱だった。16回は臨時総会として招集されたので、15回総会議員がそのまま資格を持っていたので、個人的に参加した人もあった。
 その後の総会参加を表にしてある。東京教区、大阪教区の不参加が目立つ。逆に言えば、これらの教区の声を無視しつつ教団は運営されてしまったことになる。
 教団も教区も、その会議が困乱するのには、造反リーダーの存在が大きかった。
◎東京教区/小田原紀雄
◎大阪教区/桑原重夫
◎兵庫教区/菅沢邦明
 これらの人は、一人で教区総会を粉砕する力量を持っていた。その理論の一貫性もあり、太刀打ちは難しかった。殆どの人は論破された。その内容が福音ではなく、アナーキーを基本としているので、土俵の外での議論になっていたからである。
 もちろん、これらのリーダーの周辺にはシンパが居た。会議で困乱を起こし、議論を紛糾させるのはシンパ。終わりにリーダーが締めくくる。その内容は、聖書、福音、義認から外れていたのだが、それを正す議論はあまりなかった。当時の議事録を見ると分る。
 中間的立場にいた多くの教師たちが、この造反理論に理解を示してしまった。「まあいいではないか」「その内に収まるよ」といった程度の妥協だったが、これが教団の本質をゆがめる結果になっていった。
 「私のは言わばイエス教です。革命家イエスです。政治の体制、宗教の体制、あらゆる体制に反抗し粉砕するのがイエスの目的とする所で、私たちはその精神に立つ者です」(1972・3教団問題協議会・堀光男)という度外れた主張の人々を、運営上は内に取り込んだ形で、進むことになってしまった。
 全国の諸教会は、この流れ方を許さないところが多かった。無視して殻に閉じこもり、各個教会を強調する教会と、グループ化して新しいあり方を探る教会が現れてきた。これについては、後に検討することにしたい。

教団総会への参加表

教区
東京
神奈川
京都
大阪
兵庫
年度
総会
1968
15回
×
×
×
×
×
1969
16回
×
×
×
1973
17回
×
×
1974
18回
×
×
1976
19回
×
×
1978
20回
×
×
1980
21回
×
×
1982
22回
×
×
1984
23回
×
1986
24回
×
1988
25回
×
1990
26回
×
1992
27回
1993
28回
1994
29回


3.第17回教団総会
①歴史の空白
 教団発行の教師手帳には、日本基督教団年表がある。片寄りがあって、何れ訂正される部分を含んでいるが、大枠から読みとれる事も幾つかある。 通して読むと、'69年から'72年までの4年間の記録が異常に多い。この点は見落としてはならない。教団が特別に活発だった訳でもないのに、年表の作成者は、言い訳がましく列挙している。
 最大の理由は、この時期、三役が殆ど機能していないこと。常議員会も決議機関としての役割を果たしていないことの二点である。
 決定したこと、行動したことに責任をとる人がいない時、記録にして全体の責任だと呼びかける方法に頼ったからである。A、B、C、D案が何のことか分らなくても、歴史としての責任は全教会にある。教団の正史としては空白だったと言うべきだろう。

②準備委員会の発足
 島村亀鶴教団議長代行は、就任しても支える基盤がなかった。背景となる東京教区は総会流血事件を含む鋭い対立があって、辞任した教区議長の後任が選べない状況だった。
 教団は常議員会を招集しても定足数には達しない。従って副議長も選べない状況だった。
 そこで、'72年10月第25回常議員会で、各教区代表に信徒を加えた。総会準備委員会を発足させた。委員は次の通り。
 川谷威郎(北海)、笠原金吾(奥羽)、管隆志(東北)、桜井一(関東)、小島一郎(神奈川)、辻宣道(東海)、戸田伊助(中部)、赤坂英一(京都)、下村昇(大阪)、竹内郁夫(兵庫)、滝口勝(東中国)、山田守(西中国)、樽本信篤(四国)、田中道宣(九州)、大島孝一、川端純四郎、長秀行、林美香、山下信行(以上5名信徒)
 この会に、東京代表は入っていない。造反グループの意を汲んだ意企的な構成であった。
 戸田伊助を委員長に選んだ会は、問題提起者の陪席の中で、総会開催についての統一見解をまとめて、総会開催に漕ぎつけた。
 この総会準備委員会は、東京外しの効果があったこと。委員の中に暴力拒否という人が少ないこと。地方教区にとって、教団総会不開催というのは耐えられないこと。教師検定試験不実施や、准允按手が執行出来ないのは困ることなどもあって、一連の混乱の中では、あっさり結論を集約することが出来たと言っていいだろう。暴力を肯定し、正論は何も通らなかった、と
いう言い方も出来る。

③第17回教団総会
 '73年11月、箱根小湧園で開催した。三泊四日の日程。東京、大阪、兵庫教区は不参加だった。400名の定数の中で、130名が欠けていた。
 この三教区は、総会が開かれて総会議員が選出されれば、問題提起者に反対の立場の人が多く選ばれる筈であった。それを承知している造反者たちは、教区総会を破壊したのである。
 17回総会は、第16回総会の合法性をめぐる問題。準備委員会のまとめた会議制、宣教論、教職制、信仰告白の4項目の問題などを議する筈だった。が、結局は、数年にわたる空白に関する責任の追及が中心となった。分り易く言えば批難・追求集会となった。
 圧倒的に造反側が主張した。陪席者を大動員し、信仰的発言をする議員は取り囲んで威圧した。
 「万博支持決議の誤りを認める件」が、重要な議案だったが可決は出来ず、継続にする提案も114対105で、かろうじて残った形である。先にも触れたが、東京教区議員の選出があれば否決されていたと見るべきだろう。
 教団議長に戸田伊助、副議長に小野一郎を選出した。
 常議員選挙は行われなかった。意図的な議事引き伸ばしによる結果である。選挙を行えば、造反系の過半数確保は難しかったのを見抜いた問題提起者の作戦通りとなった。
 総会の終了も、時間切れとなってから、休会動議が出され、それも採決出来ない、という状況で終了した。

2008年3月10日月曜日

実録 教団紛争史 第五章 暴力の嵐・一九七〇

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫
1.世界同時革命の幻想
 九・一、二事件のあと、教団は質的に崩壊して行ったのは、前項で示した。
 一九七〇年は、その意味で深く記憶されなければならない。大阪万博は六千万人以上が入場し、無事に進行した。キリスト教館(西村次郎館長)には二三二万人が入場し、全員に聖書を配布した。
 反万博で立上った造反者たちは、当面の攻撃目標を失ったことになる。ただ運動の指導者(堀光男、桑原重夫他)は、本来の目的である世界同時革命にハンドルを切り換え、青年達を扇動し続けた。万博反対などは、都合よく題材としてあっただけのことだった。
 「教会は革命の拠点である」と主張して極左集団(全共斗中核派・革マル派等)と連帯した。その上で、教団と教会とを攻撃目標とし、一つ一つ倒して行った。造反に乗っ取られる教団の機構、教会、学校が相い次いだ。
 東京神学大学のバリケード封鎖は全共斗革マル派との連携だった。
 青山学院大学、関東学院大学、明治学院大学などでも激しい闘争となった。青山学院大学と関東学院大学の場合は、一部教師たちが全共闘と組んだため、紛争が解決しにくくなり、神学科の廃止(一九七二年度)となってしまった。日本基督教団の大きな宝が失われてしまった。木田助教授、高尾助教授などが果した負の行為を忘れてはならない。殆んどの場合、踊らせた側の人はこの世的に成功し、踊らされた学生たちが道に迷ったことも忘れてはならない。教会が青年を失った理由にもなっている。

2.第一六回教団総会
 九・一、二事件の結果、飯教団議長が約束させられた臨時総会は、常議員会も承認させられた。その経過については前回は表と平山照次見解で示した。
 第一六回臨時総会は、一九六九年一一月二五、二六日、山手教会を会場として開催された。
 開催する必要があったという当時の判断は、歴史として整理してみると、明らかに誤りであった。
 そのことを示す指標は多いが、教団の公式記録から拾って見よう。
 牧会手帳(教団発行)の年表の記事で見ると、次の通りとなっている。
 『第一六回臨時総会は、議案(「日本万国博覧会キリスト教館に関する件」の決議を本総会において再検討する件。第一五回教団総会議案第55号の決議を再確認し、これに付帯決議を付する件。万国博キリスト教館反対決議に関する件)の上程はされず、二日間にわたる討論は飯議長による総括表明をもって終結』
 教団発行の年鑑の「教団の記録」を見ると、この総会について触れていない。なにも決めないし、祈りを持って始め、祈りを持って終るという必須の大原則もあやしいのだから、書きたくないという思いは分かるが、それでは歴史ではない。
 この総会は、終始、暴力が支配した。ヘルメット集団が通路をうめた。100名を越える傍聴者が、ハンドマイクも持ち込んで叫び続けた。(写真が残っている)
 総会議員たちは、為すすべを知らなかった。それは当然で、責められるべきではない。祈りの時、別のマイクからナンセンスなどとやじが入れば、その先の在り方など知るすべもない。議案の掲示や見解の表明などは不可能である。
 桑原重夫、大塩清之助たちの、あきれ果てた暴力支配、議場操作の結果であった。その後の教団総会は、すべて、その流れで行われている。現在でも、である。もちろん弱くはなっている。
 この臨時総会の終了時は、インターナショナル(起て飢えたる者よ・・・あーインターナショナル我らがもの)が合唱されていた。讃美歌は捨てよ、信仰は捨てよ、人民革命に立とうという声が、議場を圧したことになる。

3.以後の総会 開催出来ず
 「あれは総会ではない」という声が広がった。執行部は、総会だったと抗弁し、造反議員や問題提起者の圧力も利用して、十二月八日の臨時常議員会で『総会は有効に成立し、・・・質疑の途中で傍聴者も加えて討論集会に切りかえられ、議事に入ることなく、議長の閉会宣言をもって終った』という公式見解をまとめた。

(九・一、二事件から100日の表も参考に)
 造反の嵐は各教区に波及した。幾つもの教区で臨時教区総会が行なわれ、そのどれもが困乱した。ヘルメットに搖れた。血を流す場面、会場を断られるところ、流会するなどが相い次いだ。
 教団総会は二年に一度開催することになっている。
六八年十月 15回定期総会
六九年十一月 16回臨時総会
を経ているので、
七〇年十月  17回定期総会
を開かなければならない。
 そのためには
 七〇年五月頃 各教区総会を開催して、総会議員を選挙しなければならない。
 この各教区総会は、暴力がひど過ぎて開催出来ないところや、開催してみたが選出出来ないところが出てきた。
 東京、神奈川、京都、大阪、兵庫の五教区の総会議員(一七四名)が選出されない事態となり、総会開催は不可能になった。
 飯教団議長、木村知己書記、高倉総幹事は、この時点で信頼を失っていた。一部の造反学生や問題提起者からは支持が寄せられてはいたが。
 常議員の多くも、信頼していなかった。第一五回総会での決定を覆えされたからである。その経過をふまえつつ常議員会が開かれていく。その粗筋は表で示したい。
 
4.教団本部の移転
(1)一九七〇年の時点の教団役職は、一九六八年の総会で選出されている。教団丸を託するにふさわしい選出で、常議員会に限って見ても問題提起者と呼ぶべき人は数名しかいない。
 ただ飯議長、木村書記、高倉総幹事が造反に屈していたので、押しかける陪席傍聴者と呼応する形で、正当な議案をねじ曲げていった。
 教団の各委員会も、問題提起者のなぐり込み的介入がなければ、整然と行事をすすめていった。
 第二回宣教方策会議
 こころの友一五万部感謝会
 讃美歌二百万部発行感謝会
などである。

(2)教団本部(事務所)の移転は、こういう状況と併行で行われた。銀座(現在の教文館)から早稲田へ移った。
 日本基督教団に関係のある多くの組織、団体も同じビルに入った。関係者にとっては長い夢の実現であった。
 ところが、これが教団紛争のあおりを受けて、秩序ある移転にならなかった。最初につまづいてしまったことになった。
 開かれる常議員会や各委員会は、問題提起者が勝手に議場に出入りするし、暴力も振るったりしていた。事務室にも気ままに出入した。それが通例となってしまった。
 問題提起者は事務室にたむろすることになり、時に占拠もした。極左集団で当局に追われる人が、隠れ所にもした。
 こういう状況の中で事務室が整うのは無理である。会計なども整理がつかなくなった時さえある。
 移転当初は、それでも責任者たちは信頼出来たが、やがて問題提起者たちが指導の実験をにぎるようになると、その乱脈ぶりが増幅し、心配される事態となった。
 そこで心ある信徒が、そのことを強く呼びかけ合い、教師の年金のための原質には手を出させてはならない、と結集した。これが一九七六年第一九回総会における年金局設置の背景にあった。
 事務局運営の乱脈と会計の不透明は加速していった。
 この悪習を絶ち、経理全般をすっきりさせ、透明化したのは竹前昇総幹事である。三〇年にわたる悪慣習を断ち切った忍耐と努力は、教団史にしっかり印されねばならない。

<総会開催に関係深い常議員会>
月・日
名称
内容
1969
12・8
第8回常議員会 第16回教団総会は成立していた、と決定
1970
1・12
第10回常議員会 教団副議長に菊地吉弞、島村亀鶴をおすが辞退
2・24
第11回 吉田満穂を副議長に選出
10・6
第14回 総会開催A案、B案を否決、C案を決定
10・26
第15回 第16回教団総会の総括原案を作成
11・24
第16回 上の議案の審議を予定。定数不足で流会
1971
2・18
第17回 飯清教団議長辞任・吉田満穂議長就任、D案を決定
6・22
第19回 71年10月に総会開催すると決定
10・4
第20回 右の決定をとり消す
1972
2
第21回 教団問題協議会の動向を見て総会を考えるとする
3・15
第22回 72年10月に総会を開催すると決定
7・10
第23回 右の決定をとり消す
8・14
第24回 吉田満穂議長辞任
9・4
第44回常任常議員会 議長代行制を決定
10・23
第25回常議員会 島村亀鶴議長代行を決定、総会準備委員会構成
          ↓↓
1973
11・20
第17回教団総会

2008年1月10日木曜日

実録 教団紛争史 第四章 教団の質的崩壊

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫

1.九・一、二の歴史的位置

その当時の教会は、百余年の歴史を重ねていた。宣教師たちの伝道を継いで、プロテスタント教会として成長して来ていた。
 太平洋戦争の大試練を受けながらも、先達の苦闘によって、人口の1%に達する新旧教徒が居るまでになっていた。
 日本基督教団は、プロテスタント教会の中では、最も大きな教団としての矜持を保ちつつ責任を果たして来た。
 教師・信徒すべてが思っていたように、その働きは十分ではなかった。が、主の守りの中にあることも、確かであった。
 一般社会も、教会とコミットすることは無いとしても、教育、社会福祉などを中心に応分の敬意を持っていた。
 この総てが、九・一、二で崩壊に向ってしまった。
 礼拝を中心に主を仰ぎ、それぞれの持ち場に使わされて生きる。これが信仰生活である。罪を犯し、傷つき、再び礼拝に集う。これが信仰の希望である。これが破壊されてしまった。
 九・一、二の主役たちは、「教会は革命の拠点である」と主張し、実行し始めたのである。反政府、反体制でないものは教会ではないと絶叫して止まなかった。
 そして、ついに、飯清教団議長が、それに屈したのである。妥協させられてしまった。それは連鎖反応となった。勝ったと連呼する学生、教師たちは、(やくざ)まがいの脅迫や、ヘルメットでの乱入などで、うろたえた教師たちを変節させて行った。
 歴史的になかった事態、教会としての想定外の出来事に、あわてた教師たちが相次いでころんだことになった。
 参加した学生・青年たちの殆んどは、理論づけなどして無かった。極く少数のリーダーが、全共闘中核派や革マル派の理論を振り回し、「そうだ」と連呼したに過ぎなかった。
 一連の騒動が少し収まった時、彼らは行き場を失った。教会からも去った。その時から、教会は青年を失うことになってしまった。
 敗戦後、一貫して右肩上りだった教勢が、全く伸びなくなった理由である。歴史を停滞させることになった。

2.教団の会議制の崩壊
 九・一、二事件の十日後、教団の臨時常議員会が美竹、山手教会で行われた。
 九・一、二で飯議長が、教団総会の決定を覆してしまったので、その了承を得るためであった。この会の傍聴をした会場教会の平山照次牧師の見解を以下に抄録する。
 「日本キリスト教団は、1969年9月11日午後12時、私の眼の前で〈実質的に〉崩壊しました。
 教団の正式常議員会?は、出席議員の何倍かの数の姓名不審者も含む『万博反対者集団』に囲まれて、怒号と罵倒の一斉射撃を浴びながら開かれました。・・・・・
 最初『反博集団』の代表六名だけの傍聴を認めることになっていました。しかし、飯議長と高倉総幹事が、二階玄関で『反博集団』と折衝した結果、ついに数十名集団全員の出席を認めさせられたのでした。
 私は見ていました。一度に何人も立ち上っての激烈な発言、怒号、罵倒の中で、常議員会?は、司会こそ飯議長がしていましたが、会の運営は完全に『反博集団』によって主導権を握られていました。
 常議員の何人かの顔には恐怖と困惑と『反博集団』におもねるような表情さえ見えました。
 心理的圧迫の下で、かりに『万博反対』が決議されたとしても・・・・・・内容的に空しいものになります。私は、フッと拷問の鞭の下で意識もうろうとなって、無実の罪を自白させられる被疑者の光景をそこに見ました。
 私自身の意見は、靖国、万博、安保等に反対する点でこの『反博集団』と同じであり、長年、民主勢力と共に激しく闘い続けて来た者だが、この集団のやり方に反発と憂慮を感じます。・・・・・・」
 常議員会は常議員によって運営される。教会役員会は選出された教会役員によって開かれる、という、あまりに当然な原則が、吹き飛ぶように崩壊したのである。
 教憲第四条の「本教団は教憲および教規の定めるところにしたがって、会議制によりその政治を行う」は、無残に破られたのである。

3.教団の信仰の崩壊
 教会の信仰は、始まりから異端にさらされて来た。聖書がそれを明らかにしているし、教会の歴史もまた、その事を示している。異端と闘い続ける真剣な努力なしに、キリスト教はない。
 九・一、二事件をきっかけに、政治的プロパガンダが持てはやされ、万博反対イコール信仰という思い込みが蔓延してしまった。勢いがあり、暴力も伴って、学生・青年たちを熱狂させた。指導した教師も間違えてしまった。
 万博問題が冷えてしまった後は、信仰の崩壊だけが一人歩きすることになった。信仰議認、聖書正典、三位一体を否定することになってしまったのである。勿論、正面切って、三項を否定したら全くキリスト教とは無縁の人となる。この三項は、少しでも揺らいだら、日本基督教団ではなくなる程のものなのである。
 端的に言えば〈イエスはキリストである〉かどうかの議論といい換えてもよい。この〈イエスはキリストである〉に条件をつけたのである。万博に反対する、資本主義に反対する場合にだけイエスはキリストである、としてしまった。
 これらを飲み込んで了解した上で、暴力にも主張があるという戸田伊助議長が登場することになる。従って、この時代、教団は信仰に生きてはいなかったのである。

4.教団の伝道の崩壊
 伝道は、伝えたい側、教会教師、信徒の信仰がスタートである。この喜びを伝えたいというモチベーションがなければ始まらない。
 自らが確信を失った時、復活したイエスが信じられなくなった時、全く力を失なう。失なうだけではなく拒否的にならざるを得ない。問題提起者が教団を支配していた20余年間は、伝道は禁句だった。筆者を含めて数人の常議員は、覚悟を決めて「伝道が必要」と主張したが、大
変なやじ、怒号にさらされた。伝道は教勢拡張主義(岩井健作、外)だと言うのである。
ただ、このご粗末な伝道論議は、各個教会にはあまり届かなかった。届いた場合でも、はねのける力が与えられている教会が多かったのは、主のあわれみであった。
 教団における伝道拒否が停滞を招かない筈はない。戦後の教勢統計の概略をグラフで示してある。1970年を境に、教団は全く伸びていない。プロテスタント全体と、カトリックも含めたキリスト教徒全体は確実に伸びているのに、である。

5.万博反対の論旨
 九・一、二事件は、万博反対が中心であった。その後の紛争や論争の場面でも、枕言葉の如くに用いられた。そこで問題提起者・堀光男、大塩清之助などが出した、おびただしい論考やアジテーションを検討しておく必要がある。
 反万博の理論の柱は、①万博は大資本の繁栄のおごりである。②ベトナム特需ではないか。つまりアジアからの収奪である。③大阪地域には公害が拡がっている。④万博工事で四人もの労働者が死んでいる。となっている。貧しい主張の柱ではある。現に、20年後に開催された1990年大阪花の万博の際は、これらの人びとは、何の異議も称えなかった。
 ベトナム特需を除けば、事情は全く同じであるのに、一言も主張しなかったのは、万博反対の理論が、いかに、いい加減のものであったかを示している。
 しかし、これで、日本基督教団は徹底的に揺さぶられたのだから、許し難いと思う人が多いだろう。
 もともと造反者たちは、混乱を起すことが目的だったので、自分達の主張などは、何でもかまわなかったのである。


2007年11月10日土曜日

実録 教団紛争史 第三章 暴発= 九・一、二事件

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫

 教団紛争は一九六九年九月一日に始まった。と言うより暴発したと言ったほうが正確に理解できる。
 東京・銀座の教文館会議室で行われた会による。(当時は教団本部も同じビルにあった)この会で起った事すべてを含めて 九・一、二(きゅうてん いちに)事件と呼ぶ。呼び名の統一は歴史理解に欠かせないので、確認しておきたい。
 少し余談になるが、九・一なら関東大震災の日になるし、九・一一ならニューヨークのテロ事件になる。教団紛争と暴力の発端は九・一、二である。
 
1.九・一、二事件の概要
 一九六九年九月一日午後一時半から、二日午前八時十分まで、十八時間四〇分にわたって行われた。
 出席者 飯清教団議長、木村知己書記、高倉徹総幹事、常任常議員の高崎毅、島村亀鶴、大村勇、森里忠生、北森嘉蔵、小川清司、秋山憲兄、長谷川保(一日目)
 問題提起者 土肥昭夫、桑原重夫、大塩清之助、吉松繁、徳永五郎、辻建( 以上教職)小林俊彦、桜井秀教、小西柱、管沢邦明、高沢充朗、冠地文子、古谷、清水、宇野、中野、高橋 他
 参加者全体は一五〇名と報告されているので、前記以外にも多くが参加していた。写真も残っている。
 会全体は、「大衆団交」という、当時のはやりの形となった。分かりやすく言えば、紅衛兵ばりの「つるし上げ大会」である。
 一九時間も、正規の休憩時間なしで追求する。へとへとになって、心にもない事を言わせて勝利とする問題提起者たちの作戦である。
 この会については、遂語録的な議事録が残されている。ガリ版刷りで、その分量は新約聖書の三分の二に相当する。二ヶ月後の十一月には完成しているので、直後の生まなましさと正確さは信用していい。教団宣教研究所の出版である。 
 読みすすめば分かることだがつるし上げだから、文意不明が多い。
 大村勇はNCC議長として万博キリスト教館に責任があるので、主張は曲げない。
 北森嘉蔵テーマ委員も主張を曲げない。くやしくなった学生が、北森嘉蔵をなぐった。時間を経て、二回目もなぐったのである。暴力が教団の最高責任者たちのいる所で振るわれたのである。そして会は中止でなく続いたのである。

2.「九・一、二の記録」

 (1)この議事録は、教団紛争を本気で論ずる人には必読である。教団史を志ざす人にも必読である。が大部分の教職信徒には読了不可能だろう。
 意味の通じにくい文を読むのは忍耐を要するし、常議員が一方的につるし上げられている記録は、気分がよくない。きちんと答えていても、その部分は記録されていない。ヤジで消されているので。
 そこで、この記録のさわりについてだけ紹介しておこう。
 それは、この記録がテープから起こしたものなので、不規則発言がそのまま入っていることについてである。もちろん、一斉に騒ぎ立てるので、聞き取れない場合も多いが、かなり忠実に再現している。
 その数を以下に示そう。

ヤジ!       一五〇回
ヤジで聞こえず    八五回
ナンセンス     一〇〇回
イギナシ       五〇回
そうだ        四五回
怒号         二〇回
フザケルンジャナイヨ 一五回
ナメルナー      一五回
バカヤロー      一〇回

他に、どうなんだ、立てよ、答えになってない、今まで何してた、多少のいざこざ 他がある。

 (2)この議事録の巻頭言は次のようになっている。
 「一九六九年九月一日、二日の一九時間討論集会は、教団の歴史にとって、その評価はもう少し年月がかかるでしょう。大きな意味を持つものだと思います。あの集会、あの十九時間には、色々なことが起こっています。あの場にずっと居た方も、その様子をあとで聞いた方も、それぞれ色々な感想や評価をもち、それを、あるいは個人的に、あるいは公に語って来まし
た。・・・・・・結局のところは、各自が主体的に出来事に参与して行くことにつきるのではないでしょうか。
 そう考えた時に、私はあの集会の録音テープと、再生した原稿を、単に記録として宣研に保管しておくだけではいけない。・・・この資料を公開し、出来るだけ多くの人々に読んでもらおう。その上で何が起こったのか、何が語られたのかを考えてもらおうと思ったのです。・・・」

(宣教研究所幹事岸本和世)
 紛争初期の荒れた会の議事録は、あまり残ってはいない。まとめてみると、内容が無いからである。まとめきれない場合も多い。その中で、最大のポイントになる九・一、二の議事録が、それも遂語録の形で保存されているのは、それ自体が重要である。

 (3)この議事録は、教団の宣教研究所が作成したものだったが、現在は宣研でも見つからない。
 そこで九・一、二の十周年の時に、教会連合が増し刷りをし、少し見易い印刷になって発行されている。
 この版には、九・一、二事件当時、教団宣教研究所の委員長であり、印刷時には教会連合の議長団の一人でもある市川恭二が序文を寄せている。
 「当日、私は現場に居合せて状況をつぶさに目撃した。翌九月二日には、大阪教区で万博キリスト教館出展問題を議題とする臨時総会が開かれ、私が万博推進賛成の立場から発題を行うことになっていた。九・一、二のこの集会で、私の理論を破る理論が現れるなら参考に資したいと期待感から、私は手続きを踏んで陪席したのである。・・・
 私は完全に裏切られた思いであった。当日、あの場で聞かれたのは、およそ理論とか論理とかの名に値すべき何ものでもなかった、と少なくとも私には思われたからである。・・・青年からの側に立ち、彼らと全く歩調を揃え、場合によっては彼らを使嗾して教団当局者に向わせた教職者たちの姿も、かなり見られた。
 いやしくも御言の役者として立てられた以上、毎日曜日の講壇から、福音を語り、十字架を説き、贖罪の恩寵を指し示す、それが牧者たる者のつとめである。ところが、当の自己自身には、要するにその体得がない。
 従って福音を語り十字架を高調すればするだけ、魂は白け、空虚は増す。内に持てるものは福音と似て非なるヒューマニズムの愛の思想である。そこで、体制破壊・虐げられし者の解放を呼号する反権力的時流に乗ることによって、魂の空虚を満すべき代替物を求めるのである。・・・」

3.九・一、二からの一〇〇日
 歴史の示す所に従えば、大事件は起った直後が大事である。国際的な紛争も、国内的な改革も、さらには教会の歴史に起った数々の出来事もである。
 そこで、九・一、二についても、起った後について、その一〇〇日を検討しておきたい。中心になる動きを表にしてある。
 飯議長、木村書記(副議長は欠員)、それに高倉総幹事が、問題提起者の要求を飲んで、教団総会決定を否定してしまったのが九・一、二である。
 その後の扱いは、当然ながら困難を極める。一〇〇日の間に五回の常議員会が開かれている。(一回は示してない)
 信徒の代表的な人々は、連名で総会開催反対を呼びかけ冷静だった。が、通じなかった。
 ひと度、暴力に屈した人は、次の発言と行動が、徹底的な制限をうけることになってしまう。九・一、二の記録にある飯議長と木村書記の発言は、事前に問題提起者と取り引きが行われていたかの如くである。
 AINで示したもの以外に各教区、教会へも、反万博キャンペーンが展開され、大混乱を起こした所も多かった。

出来事の名称 内容の要点
A 9 1-2 九・一、二事件(銀座・教文館) 大衆団交の形で常議員のつるし上げ。
B 3 東京神学大学教授会声明 九・一、二で北森教授が、なぐられたことへの抗議
C 8-11 全国教職者大会(箱根) 二年の準備、千人集まる伝道協議。九・一、二は説明があった程度
D 11-12 第五回臨時常議員会(美竹、山手教会) 陪席者多数、乱入の形で(平山照次見解がある)
E 15 高崎毅教団副議長辞任表明 七日前に就任したばかり。辞任はすぐには受理されない
F 22 臨時総会開催反対九氏声明 臼井良一、木本郁、高見沢潤子、西村次郎、長谷川保、林敏子、正木良一、桃谷勘三郎、山崎宗太郎
G 26-27 第六回臨時常議員会 万博問題再協議のための臨時総会の開催を決定(?)
H 10 3 万博討論集会(山手教会) 東京教区社会部主催
I 6教団教師検定試験粉砕される 菅沢邦明他が試験会場に乱入。答案用紙を破り粉砕
J 11 4 第七回臨時常議員会臨時総会の開催決定を再確認
K 19-20 東京教区第四六回臨時総会(山手、西片町教会) 問題提起者がヘルメット姿で議場を支配
L 24 東京神学大学バリケード封鎖される 学生自治会は、全共闘に侵食される。各目は九・三声明反対
M 25-26 第一六回教団臨時総会(山手教会) 乱入者は怒号で議場支配 勝利宣言。何も議せず、何も決まらない
N 12 8 第八回臨時常議員会 一六回総会は成立していた、と結論。総会になってはいないという見解も

2007年9月10日月曜日

実録 教団紛争史 第二章 教団紛争の前史

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫


 教団紛争は一九六九年九月一日に始まった。この日、問題提起者一五〇名と教団三役常任常議員との会議が行われ、大変な暴力的状況の中で飯清教団議長が、総会での決定を覆えしてしまった。
 正式な決定を覆えすというのは組織の破壊である。それが行われてしまった決定的な日となった。紛争の始まりである。
 ここに至る前史については若干の検討をしておきたい。後にも触れるが、問題提起者の行動は時の流れに乗ったものであることを示したいからである。「戦責告白」は、時の流れに乗ってしまったことへの反省であった筈なのに、である。

1.世界の流れ
 一九六〇年代後半は、ベトナム戦争のどろ沼化による西側諸国のとまどい。ソ連のチェコ侵入に伴う社会主義の落日などがあり、世界史不透明の時だった。
 中国は文化大革命を始めており、紅衛兵による暴力つるし上げが、連日放映された。フランスではカルチェラタンを発火点とする若者・学生の暴力デモが繰り返された。
 キング牧師、ロバート・ケネディが、相次いで暗殺された。
 第二次大戦後に築かれた東西対立による均衡、武力によるバランスが、それぞれの主体を含めて崩れ始めていたのである。
 「ベトナム戦争に反対した人だけが、ソ連のチェコ侵入に反対出来るし、しなければならない」(長州一二)に代表されるように、世界の混沌ぶりに識者も身動き出来にくくなった。
 さらに時代が進むと、ソ連の崩壊があり、日本の評論も同時崩壊することになるのである。

2.日本の流れ
 一九六〇年代後半の日本は、世界の状況をまともに受けることになっていった。
 東西対立に崩れが始まっていても、日本の55年体制は崩れず、いわゆる自社対決の構図であった。
 その中で、七〇年安保反対運動は盛り上らず、六〇年安保反対が岸内閣を退陣させたのとは大変な違いであった。
 原水爆反対運動は原水協と原水禁に分裂して互を非難し合っていた。社会党と共産党の対立は、諸運動の大幅な後退をもたらした。
 閉塞感がただよい、護憲を掲げる力の後退を見越して、自民党は数回も廃案になっていた「靖国神社(国家管理)法」案を国会に提出した。国会の勢力図と政府の政府の根回し
など成立の危険もあった。
 キリスト教界は、信教の自由のために、上げて反対運動に立ち上った。日本基督教団も文字通り持てる力を結集した。戦後最大の政治的運動になり、法案は国会で廃案となった。

3.学生運動
 靖国法案反対運動の後半から、学生・青年を中心に、この闘争は体制の中での批判であり生ぬるい。という強い声(全共斗中核派など)があって、全国的な反対運動は分解していった。
 この学生運動は全共闘がリードしていた。やがて学園紛争と結びつき、万博開催地大阪を中心に反万博運動、反体制(ゲバルト)運動として急速に拡大していった。
 靖国法案反対で結集した信徒は、足もとをすくわれた形となった。これ以後、教団は政治課題で結集する力を失った。大変な損失となった。
 この靖国反対運動の直前に東大医学部紛争(一九六八・一)は始まっていた。翌年一月の安田講堂封鎖解除に機動隊八千が出動したが、一年間の東大は無政府状態だった。
 この東大紛争は全国の大学に波及し、大学学長や理事長に集団で圧力をかけ、つるし上げて、大学運営(月謝・自治)などについて権利要求を行った。
 全学連は運動から姿を消し全共闘が主導するようになり、極左集団となって、武闘もいとわない、と主張し、実行した。三菱ビル爆破事件などは時の教団議長までが支持することになってしまった。
 大学紛争は高校にも及んだ。大学をまねて、全校集会や集団交渉などで、不満な教師を糾弾したり、安保反対を叫んだり、卒業式を紛砕したりした。

 大学でも高校でも、しきりに保守反動独占資本という言葉がもてはやされた。教授や教師は保守反動だと、紛争の渦中に飛び込んでいった。相手が自己批判するまで叫び続けたというのが実情だった。
 数年を経たら、教師たち自己批判をした人も、学生たち自己批判をさせた側も、その事を忘れるか、無視していた。空しい程に一過性であった。
 学園紛争はキリスト教主義学校も例外ではなかった。暴力も振るわれた。その上に、ボンヘッハーもヒトラー暗殺を目指したではないか、などという牧師、教授たちの応援で、引くに引けなくなってしまった。
 全国の大学、高校の学園紛争が殆んど沈静化した後も、キリスト教関係学校、神学校は、紛争を続けることになってしまった。暴力礼賛の牧師教授たちの後ろ立てもあって、一部は極めて先鋭化していった。

4.鈴木正久議長
 鈴木正久議長が選出されたのは第一四回総会(一九六六年)で、再選されたのは第一五回総会(一九六八年)になる。
 当時の教団の中で、教団の体質改善を主張する人々のリーダーとして期待されていた鈴木議長は、就任直後から積極的に諸課題にとり組んだ。
 平和護憲、靖国問題、戦責告白、沖縄合同、万博参加、機構改正などである。どの一つも大きなテーマであり、賛否も激突型にならざるを得ないものである。
 そのどれもが、鈴木議長なら何とかなる、という期待もあって、全部を展開したが、結局は混乱の元になってしまった。
 病気(後急逝)退場は残念なことであった。が、まとめきれない課題を提示し過ぎたという、組織の長としての責任は大きかったと言わざるを得ない。
 特に、再選の第一五回総会は一九六八年十月の開催であり、前記の如く学園紛争はすでに大学神学部に及んでいた。
 もっとも、学園紛争の波及度と深刻性は、議場全体も見抜けなかったことになる。教団全体の責任と言ってよいだろう。
 同じ総会で報告され承認されている「戦責告白」は、時の流れに流されてしまったことへの反省であった。そのことが、この総会期では全く生かされなかったことになる。
 思いはあっても止まることを知り、そのように運営していくのが責任者である。
 教会は礼拝を守り、福音を宣べ伝え、聖礼典を行い、愛の業に励む所である。その集合である日本基督教団も、教会の業を助けることが基本でなければならない。
 その意味で、第一五回教団総会は、教会が本筋からずれ始めたことを、その後の経過も含めて示している。
 前回の表で、鈴木正久議長は、良い志が失敗した、と示したのは以上の経過をまとめた言葉である。

5.提起された課題
 鈴木議長時代に提起された課題は歴代の中でも最も多かった。目立つ六項目について表で示したい。これらの中には、紛争中ずっと叫ばれ続けたものもあるし、時々は噴出するものもある。その点は順に扱うこととしたい。

項目 鈴木議長の初期 後期とその後
機構改正 教団の働きの多くを教区へ
教団の地方分権
教区を整える前に暴力と造反
それぞれに=勝手となる
平和護憲 国内は護憲勢力の結集
国際的にはブラハ会議や原水爆
メンバーの内部対立で動きにくい
運動が迷ってしまった
万博参加 キリスト館を出展する―否決
NCC が行うのを支持する―可決
うまくいく筈がない
大混乱の引き金になった
戦責告白 鈴木議長名で出す。
案文については機関の了承なし
反論が多く、総会通過に懸念
五人委で調整した
沖縄合同 本土復帰前に実現
沖縄・本土ともに喜ぶ
問題提起者がとらえ直しを提案
現在も未解決
靖国反対 信教の自由の闘いとして盛り上る
戦後最大の運動となる
問題提起者、とくに全共斗中核派に
より運動が 分裂

2007年7月10日火曜日

実録 教団紛争史(一) 第一章 教団紛争の輪郭

日本基督教団常議員
福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫

1.執筆の動機

 標題の記録を書き残さなければいけない、と、強く意識し始めた動機は以下の四つである。
(1)日本基督教団の歴史は66年になる。その半分以上にあたる38年は、いわゆる教団紛争の歴史である。教団に属するすべての教会・信徒は、このことを避けては通れない。
 教団とは何か、紛争の内容は何かについては、本文で明らかにすることになるが、教団紛争は教団にとって、最大の出来事だったのである。
(2)この教団紛争について、知らない世代・人が増えてきた。時日の経過で止むを得ない面もある。
 しかし、意図的に忘れようとしたり、係わりを隠そうとする人もいる。発言したことや行動したことを無かった事のように振舞う傾向も目立ってきている。これを許していたら教団形成は出来ない。
(3)教団紛争の通史は目下のところ見当らない。部分史もないと言ってもよいだろ
う。志している人はいるかも知れない。が、それは先の話である。とすれば、教団正常化を目指した同志的集団である福音主義教会連合に属する者に責任がある。
 不十分を承知しつつ先鞭を切る由縁である。後に続くことを願いつつ。
(4)日本基督教団年鑑には「教団の記録」というまとめが載せてある。これを読めば教団の概略が分るというたてまえで書かれている。が、そ
れは無理である。紛争を意図的に隠すからである。
 時の教団のあり方を正当化するのは、組織としての当然があり、問題提起者が圧倒的だった
20年間ほどについては止むを得ない面もある。
 牧会手帳なども同列である。これらが、そのままでるのは良くない。正すべきは正さねばならない。

2.執筆にあたって
(1)標題に実録とつけた。目で見たこと、耳で聴いたこと、体験したことを中心に展開したいという強い思いの末である。従って分り易くなければいけないという点にもこだわりたい。
 そうでなければ、あえて先鞭をつける意味はうすい。という思いが、この実録という異例の中に含まれている。
(2)38年の紛争中、筆者が教団常議員として係わったのは19年間である。もちろん教区や分区、教会を通して、それ以前にも多少の係わりはあった。が、実録の主旨にも照らせば、紛争後半部にウエイトがかかるのは当然である。
 紛争前半期については、キリスト教年鑑を始め、比較的正確な記録が残されていることをつけ加えておきたい。
(3)紛争の基底は暴力である。暴力は体験した人と、話として聞いた人とでは、全く別のものになる。そこを、少しでも埋めておかないと、後の人が見誤ってしまうことになる。
 個人個人の発言も、暴力の威圧によって少しずつずれる。集団や会議の方向も妥協という変質をする。この部分を何としても書き残さねばならないのだが、これはすでに文学表現の領域になる。
 それでも、筆者は本気で、この部分に立ち向いたいと願っている。
(4)紛争に係った人たちの呼び方を統一しておきたい。
A 問題提起者 紛争の主役である人びとを、こう呼ぶことにする。造反派という呼び方もある。もともと毛沢東の造反有理から発して、暴力革命も辞さず、という運動が教団にも及んだのであるから、造反派のほうが実体を示しているという見解もある。
 ただ教団内の記録などで最も多く用いられているので、今回は統一して用いたい。
B 教会派 福音主義教会連合に結集した人や、小島誠志・山北宣久教団議長を強く推進した人びとをこう呼びたい。伝道派と呼ばれることもある。最近は教憲・教規派と呼ばれることが多い。
 初心の方に一言つけ加えれば、問題提起者たちと鋭く対立し、その誤りと強く闘ったのは教会派だったのである。
C 中間派 AB何れにも属さなかった人をこう呼びたい。この中には、地方の教会で教会形成に励んでいて、ほとんど何も知らないで経過した人と教会が入る。
 中間派の中には、紛争の内容については理解した上で、中間点に立つように振舞った人びともいた。こういう人の多くは、採決に当っては問題提起者に同調せざる得ないことになった。結果的には、紛争を長びかせる原因となった。次項でも触れ、具体的展開の中でも、たびたびとり上げることになる。

3.教団紛争とは
 教団紛争とは何であったのかは、本稿の終了を待たなければならない。しかし逆に、輪郭を示さなければ展開を示すことも難しい。
 そこで、教団、紛争、暴力について一応の前提を示しておきたい。
A 教団 
 ここで示す教団とは教団本部のことである。日本基督教団総会議長、副議長、書記の三役。教団事務局とその責任者である総幹事。出版局、年金局などの組織。教団総会、常議員会、各委員会などのことを指している。
 それらの機関が、会議を行ったり、業務を果したりすることをすべて含んで教団と呼ぶことにする。
B 教団と教区の関係
 紛争に関しては、教団と教区は相似的であり、教団で起ることは、似たような形で教区でも起っていた。その逆もあった。
 ただ、紛争の後期になると教区としては主張がまとまる傾向を見せた。その結果として、教区全体が問題提起者の主張にそう方向を目指した所が現れた。北海、奥羽、京都、兵庫、東中国、西中国、九州教区が相当する。
 当然、教会派的主張を行う教区もある。東京、西東京、東海、中部、四国教区が相当
する。

4.暴力=紛争の核心
 先にも示したように教団紛争の核心は暴力である。暴力によって教団運営がゆがめられたのである。教団紛争を暴力展開の歴史であると言い換えることが出来る。
 暴力は物理的暴力と精神的暴力となって現われた。
 物理的暴力の第一は、ヘルメット、竹竿などで議場を混乱させる。時には議場で殴るけるに及ぶものである。
 第二は議場妨害である。議長団席をとり囲んで進行させない。マイクの操作で正規の発言は一切聞えないようにするなどである。
 第三には威嚇である。発言者の隣に立って悪口を言い続けたり、問題提起者の意にそわない発言に向けての一斉のやじなどである。
 精神的暴力とは、精神的圧力や脅迫をかけれらた人が、ひるんで見解を曲げることである。さらに脅迫者の気に入るような発言を言ったり、行動することになってしまう場合もあった。
 イエスはキリストではないという問題提起者に向って、それも分るが、という発言をする。信仰義認は誤りだと主張されても異を唱えない。そういう中間派の人は、長く責任を問わなければならない。

5.紛争経過表
 始めて教団紛争について知る人のために、経過表をまとめた。ここでいう悪(罪)とは、神より人間の考え(政治文化等)のほうが大切だと考えることである、念のため。



年代 教団議長 どういう様子だったか 暴力の様子
ひと言で言えば 例えば
1966

1969
鈴木正久 良い志が失敗した戦責告白も万博参加も出し方を間違えた ひどい暴力はなかった。
1969

1971
飯  清 悪が芽生えたとき 総会での決定を議長が破ってきた 暴力によるつるし上げが多発した。血を流したことも。
1971

1973
吉田満穂
島村亀鶴
大混乱に終始 何を提案しても何も決まらない 正しい提案は糾弾され、撤回させられた。
1973

1978
戸田伊助 悪を目指し暴力を肯定 聖書正典、信仰義認、信仰告白を否定した 暴力を礼讃した。それが会議の多教訓となった。
1978

1988
後宮俊夫 悪が定着したとき 問題提起者がすべてをリードした 正しい発言には、必ず暴力の妨害があった。
1988

1992
辻 宣道 悪に利用された 議長一人だけが伝道を主張した暴力的脅迫で議事が決り、問題提起者の思い通り。
1992

1996
原 忠和 大地震で悪が増巾 阪神大震災の初期対応はでたらめだった ナイフ事件が起り、教団の信頼は地に落ちた。
1996

2002
小島誠志 悪をしりぞけた 伝道推進の決議もいくつか出来た 暴力があっても負けなくなった
2002
山北宣久 良い志を目指す教憲・教規が教団の大前提と主張 暴力を排除したい、と志ざしている。