2007年9月10日月曜日

実録 教団紛争史 第二章 教団紛争の前史

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫


 教団紛争は一九六九年九月一日に始まった。この日、問題提起者一五〇名と教団三役常任常議員との会議が行われ、大変な暴力的状況の中で飯清教団議長が、総会での決定を覆えしてしまった。
 正式な決定を覆えすというのは組織の破壊である。それが行われてしまった決定的な日となった。紛争の始まりである。
 ここに至る前史については若干の検討をしておきたい。後にも触れるが、問題提起者の行動は時の流れに乗ったものであることを示したいからである。「戦責告白」は、時の流れに乗ってしまったことへの反省であった筈なのに、である。

1.世界の流れ
 一九六〇年代後半は、ベトナム戦争のどろ沼化による西側諸国のとまどい。ソ連のチェコ侵入に伴う社会主義の落日などがあり、世界史不透明の時だった。
 中国は文化大革命を始めており、紅衛兵による暴力つるし上げが、連日放映された。フランスではカルチェラタンを発火点とする若者・学生の暴力デモが繰り返された。
 キング牧師、ロバート・ケネディが、相次いで暗殺された。
 第二次大戦後に築かれた東西対立による均衡、武力によるバランスが、それぞれの主体を含めて崩れ始めていたのである。
 「ベトナム戦争に反対した人だけが、ソ連のチェコ侵入に反対出来るし、しなければならない」(長州一二)に代表されるように、世界の混沌ぶりに識者も身動き出来にくくなった。
 さらに時代が進むと、ソ連の崩壊があり、日本の評論も同時崩壊することになるのである。

2.日本の流れ
 一九六〇年代後半の日本は、世界の状況をまともに受けることになっていった。
 東西対立に崩れが始まっていても、日本の55年体制は崩れず、いわゆる自社対決の構図であった。
 その中で、七〇年安保反対運動は盛り上らず、六〇年安保反対が岸内閣を退陣させたのとは大変な違いであった。
 原水爆反対運動は原水協と原水禁に分裂して互を非難し合っていた。社会党と共産党の対立は、諸運動の大幅な後退をもたらした。
 閉塞感がただよい、護憲を掲げる力の後退を見越して、自民党は数回も廃案になっていた「靖国神社(国家管理)法」案を国会に提出した。国会の勢力図と政府の政府の根回し
など成立の危険もあった。
 キリスト教界は、信教の自由のために、上げて反対運動に立ち上った。日本基督教団も文字通り持てる力を結集した。戦後最大の政治的運動になり、法案は国会で廃案となった。

3.学生運動
 靖国法案反対運動の後半から、学生・青年を中心に、この闘争は体制の中での批判であり生ぬるい。という強い声(全共斗中核派など)があって、全国的な反対運動は分解していった。
 この学生運動は全共闘がリードしていた。やがて学園紛争と結びつき、万博開催地大阪を中心に反万博運動、反体制(ゲバルト)運動として急速に拡大していった。
 靖国法案反対で結集した信徒は、足もとをすくわれた形となった。これ以後、教団は政治課題で結集する力を失った。大変な損失となった。
 この靖国反対運動の直前に東大医学部紛争(一九六八・一)は始まっていた。翌年一月の安田講堂封鎖解除に機動隊八千が出動したが、一年間の東大は無政府状態だった。
 この東大紛争は全国の大学に波及し、大学学長や理事長に集団で圧力をかけ、つるし上げて、大学運営(月謝・自治)などについて権利要求を行った。
 全学連は運動から姿を消し全共闘が主導するようになり、極左集団となって、武闘もいとわない、と主張し、実行した。三菱ビル爆破事件などは時の教団議長までが支持することになってしまった。
 大学紛争は高校にも及んだ。大学をまねて、全校集会や集団交渉などで、不満な教師を糾弾したり、安保反対を叫んだり、卒業式を紛砕したりした。

 大学でも高校でも、しきりに保守反動独占資本という言葉がもてはやされた。教授や教師は保守反動だと、紛争の渦中に飛び込んでいった。相手が自己批判するまで叫び続けたというのが実情だった。
 数年を経たら、教師たち自己批判をした人も、学生たち自己批判をさせた側も、その事を忘れるか、無視していた。空しい程に一過性であった。
 学園紛争はキリスト教主義学校も例外ではなかった。暴力も振るわれた。その上に、ボンヘッハーもヒトラー暗殺を目指したではないか、などという牧師、教授たちの応援で、引くに引けなくなってしまった。
 全国の大学、高校の学園紛争が殆んど沈静化した後も、キリスト教関係学校、神学校は、紛争を続けることになってしまった。暴力礼賛の牧師教授たちの後ろ立てもあって、一部は極めて先鋭化していった。

4.鈴木正久議長
 鈴木正久議長が選出されたのは第一四回総会(一九六六年)で、再選されたのは第一五回総会(一九六八年)になる。
 当時の教団の中で、教団の体質改善を主張する人々のリーダーとして期待されていた鈴木議長は、就任直後から積極的に諸課題にとり組んだ。
 平和護憲、靖国問題、戦責告白、沖縄合同、万博参加、機構改正などである。どの一つも大きなテーマであり、賛否も激突型にならざるを得ないものである。
 そのどれもが、鈴木議長なら何とかなる、という期待もあって、全部を展開したが、結局は混乱の元になってしまった。
 病気(後急逝)退場は残念なことであった。が、まとめきれない課題を提示し過ぎたという、組織の長としての責任は大きかったと言わざるを得ない。
 特に、再選の第一五回総会は一九六八年十月の開催であり、前記の如く学園紛争はすでに大学神学部に及んでいた。
 もっとも、学園紛争の波及度と深刻性は、議場全体も見抜けなかったことになる。教団全体の責任と言ってよいだろう。
 同じ総会で報告され承認されている「戦責告白」は、時の流れに流されてしまったことへの反省であった。そのことが、この総会期では全く生かされなかったことになる。
 思いはあっても止まることを知り、そのように運営していくのが責任者である。
 教会は礼拝を守り、福音を宣べ伝え、聖礼典を行い、愛の業に励む所である。その集合である日本基督教団も、教会の業を助けることが基本でなければならない。
 その意味で、第一五回教団総会は、教会が本筋からずれ始めたことを、その後の経過も含めて示している。
 前回の表で、鈴木正久議長は、良い志が失敗した、と示したのは以上の経過をまとめた言葉である。

5.提起された課題
 鈴木議長時代に提起された課題は歴代の中でも最も多かった。目立つ六項目について表で示したい。これらの中には、紛争中ずっと叫ばれ続けたものもあるし、時々は噴出するものもある。その点は順に扱うこととしたい。

項目 鈴木議長の初期 後期とその後
機構改正 教団の働きの多くを教区へ
教団の地方分権
教区を整える前に暴力と造反
それぞれに=勝手となる
平和護憲 国内は護憲勢力の結集
国際的にはブラハ会議や原水爆
メンバーの内部対立で動きにくい
運動が迷ってしまった
万博参加 キリスト館を出展する―否決
NCC が行うのを支持する―可決
うまくいく筈がない
大混乱の引き金になった
戦責告白 鈴木議長名で出す。
案文については機関の了承なし
反論が多く、総会通過に懸念
五人委で調整した
沖縄合同 本土復帰前に実現
沖縄・本土ともに喜ぶ
問題提起者がとらえ直しを提案
現在も未解決
靖国反対 信教の自由の闘いとして盛り上る
戦後最大の運動となる
問題提起者、とくに全共斗中核派に
より運動が 分裂