2008年7月10日木曜日

実録 教団紛争史 第7章 クーデターと教師検定

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

 小林貞夫

1. 教団のねじれ
 圧倒的な暴力で、議場と言論を制圧した問題提起者は、次々と教団、教区、教会、関係諸団体、大学等を混乱させ屈伏させていった。
 特に教団執行部は彼らの主目標であったが、これをたたくことは一日で出来てしまったと言えるだろう。従って、1969年以降の三役たちは、造反者におもねるかの如き態度に終始した。何を行うにも、造反者の意向が先行した。戸田伊助教団議長の議場指揮では、議場で造反者に伺うような発言が度々あった。
 ところで、戸田議長になっても、常議員会や常設委員会は、以前の第15総会で選出された人がそのままだった。これらの人びとは、教団を代表するにふさわしい人々だった。常議員の中で、問題提起者への完全な同調者は、27人中3人だけであった。
 三役は造反だが、常議員会、常設委員会は全く違うという構図、いわゆるねじれ現象を呈していたことになる。
 第3章で示した九・一、二からの100日の表も、第5章で示した総会開催のための常議員会の表も、この原点を外して読むと理解出来にくい。
 1968年に選出された常議員会は形としては1974年まで続くことになってしまった。もっとも、後半期には、常議員会の凍結が論じられたり、辞任の申し出があったりで、殆んど機能しなかったが。常任常議員会は、嵐にさらされながらも、この期間は教規第37条の通りに運営され、教団をかろうじて支えるという役割を果した。
 島村亀鶴と大村勇、北森嘉蔵、森里忠生、長谷川保、秋山憲兄、小川清司の7名と三役とで構成されていたが、この顔ぶれでは、三役が造反に組しても、それが過半数にならなかった。
 そこで戸田議長は、常任常議員会を凍結した。

2. 教師検定でのクーデター
 常議員会と常任常議員会を凍結した戸田議長は、独断で教団を運営する形となった。この独断とは、造反派の主張に従うと同義であった。
 常議員会の責任である教師検定試験の実施や、COCにおける関係学校やキリスト教社会事業同盟との友好を放棄してしまった。
 第4章で、教団は会議制、信仰、伝道において崩壊したことを示した。が、ここでは形態としても崩壊し始めたことを示している。造反派から見ると、意気上る勝利であった。会議があったら暴れればよい。正論が主張され始めたらやじればよい。信仰の確かな人には暴力を加えてもかまわない。そうすれば思いが実現したのである。
 造反は目標を教団の崩壊に向けた。そのためには教師制度を破壊する必要があり、手始めに教師検定試験を破壊することを目指した。
 毎年50名を越える新しい教師が生まれることが、日本基督教団の当然であった。戦後二五年、神学大学など養成機関も、検定する教団も、受け入れる教会も、そう信じて疑わなかった。
 造反側はそこを徹底的に攻めることで、一つ一つ壊していった。勿論、抵抗があった。教会を守るというのは、教職にも信徒にも、信仰の基本を守ることになっていたので。
 ただ現実に教師が生まれてこないのは、大多数の教会、信徒にとって困ったことであった。何としても、という思いは共通であり、教師を生み出す必要のために、譲歩と妥協が重なった。
 いわゆる二重基準は、明らかな教憲違反であった。その経過については表として示したい。この経過も、クーデターだと理解すべきである。

3. 人事でのクーデター
 第18回教団総会(後述)では、議長以下の全役員の選出を行った。この時選ばれた常議員は次の通りであった。
 笠原金吾・菅原誠一・岸本羊一・入江清弘・辻宣道・小島一郎・山田守・大宮博・後宮俊夫・平山武秀・大塩清之助・鷲山林蔵・井上良彦・佐伯洋一郎・大島孝一・川端純四郎・深谷松男・浅野直人・橋本栄一・桐沢貞子・西原基一郎・貴田陽一・岡田正勝・兼松稔・尾崎政明・昆昇・遠藤修司。
 前回までの27名と一人も重なっていない。三役を含めて30名で構成する常議員会が、経験者を一人も持たなかったことになる。東京憎しや、経験者たちのやっていられないという気持ちを加味して分析しても、これも明らかにクーデターであった。文字通り教団革命であった。造反の次なる勝利でもあった。
 機関に選出された新人委員会が、すぐに相応の見解を示すことはむずかしいものであり、そっくり新人などということは、前例も、そして多分、後例もないだろう。教団は敗戦の前後でも、そうはしなかった。
 不慣れな常議員会が、造反派に圧倒されていった様を、花房譲次総幹事はこう言う。
「私はなぜ総幹事をやめたか。第18回教団総会で選ばれた常議員の顔ぶれを見て、これでまあまあやれると思った。これでなんとかいける、と思った。しかし一回二回と常議員会が開かれると、私の判断は甘かったということが分かった。討議され、いざ議決となると造反派の勝利となってしまう。なぜか。常議員の内訳は、3名のはっきりした造反、3名の福音派、三役を除いて21名は中間派であった。たしかにまわりでは造反派の人がいて叫んでいた。しかしそれにしてもおかしい。…」
 1972年から1974年まで総幹事だった花房譲次の、それにしてもおかしい、という痛哭の思いは、当時の生の事情を示している。
 ただその後の経過を見ると、常議員の半数は造反と造反派だったことになる。これは花房総幹事の見落としであった。

教師検定試験経過
月/日 主な事項 メモ
1969
10/6 検定試験中止(乱入者による妨害) 菅澤邦明らが、試験会場に乱入。答案用紙を破るなど、30分で中止になる。
1970
4/30 試験再開を公告 教団・教区の会議は困乱し続ける中で。
10/6・7 試験を延期。教師検定委員会全員辞任 小川貞昭委員長以下7名辞任。
1971
4/22 第29回常任常議員会で辞任を受理。7名の新委員を決定 小川貞昭委員長以下7名辞任。常議員の中より、菊池、大村、島村、柏井、宮崎、土岐、船本の7氏、後に松本、田中
7/3 検定委員会が「実施にあたっての見解」発表 「教師を生み出すことは、一刻も待てない」という主旨。
10/20・22 分散試験、面接試験によって、70年度分の試験を終了 集合して実施すれば、また、破壊されてしまうので。
11/25 71年度分試験も、レポートによる試験を加えて、同じ方式で終了 多くの反対見解が出されている中で、3年にわたって教師は生まれていなかった。
12/13 第37回常任常議員会で、書面決議。70・71年度分の合格者(84名) 常議員に手紙による承認かどうか、を問い、それによっての承認。
1972
1/1 春季試験公告 レポート形式で行う、という内容で
4/10 第40回常任常議員会で合格者の承認(38名) 検定委員会での判定は3月22日。
10/23・24 第25回常議員会、秋季試験合格者の承認(52名) 試験は10月3・4日に行った。
1973
3/22 第22回教師検定委員会(菊池委員長)73年度春季試験の合否判定 常議員会に承認を求めた。常議員会は対応出来ない。
6/9 秋季試験を公告 レポート形式による。
7/30 第26回教師検定委員会。秋季試験の合否判定 常議員会に承認を求めた。
9/1 第18回教団総会準備委員長戸田伊助、合格者承認に反対 上の承認申請を拒否したことになる。
11/29 戸田議長、菊池教師検定委員長、73年秋季試験合格者に「お詫びとお知らせ」を送付 「この紛争の中では認定することは出来ない」という内容。造反者と手を組んだ戸田議長の方針。
1974
2/4 教師検定委員会は、73年秋季合格者のすみやかな承認を戸田議長に要請 菊池委員長は四面楚歌の中で努力した。
2/13 同右の要請を拒否し「検定問題特別委員会」が設置される 問題提起者と三役が謀って、教師を生み出すことを否定する方向を目指す。
12/10・13 第18回教団総会、合格者の承認をしない 問題提起者の暴力による反対のため。重要議題としていたのだが。
1975
4/14・15 第2回臨時常議員会は「今後は制度的内容的にさまざまな立場の切り捨てが起こらないような方法で検定試験を行う」と決定。73年秋季試験合格者を承認 これが教師検定の質を崩壊させた。何でもかまわない、というのである。実施することとの抱き合わせ条件として、飲まされる形で。試験と承認が2年ずれている。
1976
2/13・15 第5回常議員会は「信仰告白を基準とし、教憲教規に基づいて実施する」と決議 第2回と第5回は両立しない。二重基準と呼びならされて来た。
2/25 教師検定委員全員(菅、大宮、市川、笠原、原、森田、横田)辞任新委員決定(後宮、大宮、笠原、佐伯、依田、岸本、辻) 二重基準では出来ない、という理由。各教区へ説明に行く。試験を急ぐように。二重基準は許せない。矛盾する声が高い。
25年間、二重基準のまま実施
2002
7/15・17 第32総会期第5回常議員会は「合同教会の豊かさの中で、教団信仰告白を基準として教師検定を行う」と決定。 検定試験については、文言上正常化した。正常化出来ない人は、他の面で教憲・教規違反をしている。

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