イエスを否定している、十字架を失敗だと教えている、特定の牧師を再臨主だと信じている、などと複数の証言者がいるとして異端疑惑を提起してきた韓国の崔三更牧師(光と塩教会)の主張がすべて実体のない作り上げられたもので、悪質な異端捏造であったことを示す有力な証拠が発見されました。
これまで崔牧師は記者会見など公的な場を設け、異端疑惑を示す証言者としてイ・ドンジュン氏を立たせ、イ氏に「イエスを信じず、十字架を失敗とする再臨主教義を教わった」などと主張させて、メディアを利用した異端疑惑騒動を繰り広げてきました。しかし、イ氏が異端的な教義を教わったとする出身教会で、イ氏自らがイエス・キリストを正確に証する聖書講義をしていた資料が発見されました。
これは、同教会で異端教義があり、それを教えられたとするイ氏の証言と真っ向から反対するもので、すべては崔牧師による証言者の懐柔や、証言内容の操作、偽証の創作といった悪質な手段による異端捏造であったと、その実体が決定的になりつつあります。
崔牧師はすでに韓国基督教総連合会(韓基総=CCK)異端似非対策委員会から解任され、その異端専門家として神学的・人格的適格性を疑問視する声が高まっています。また一方で、崔三更の意を汲んだ報道を行った韓国の「荒野の声」紙(趙ヒョグン社長)については刑事訴訟にまで発展し、ソウル中央検察庁が求略式起訴をし、名誉毀損の罪で300万ウォンの罰金刑処分を命じています(現在、被告の不服で控訴審まで進み、7月9日に結果がでる状況)。崔牧師らによる異端捏造の実体が明らかになり、すでに事態は終結しつつあります。
以下に、イ・ドンジュン氏自らがした聖書講義の内容を掲載します。
イ・ドンジュン氏 A教会での聖書講義全文
イドンジュン:愛深き父よ、本当に感謝致します。こんなに足りない者に主の御言葉を伝えることのできる場に立たせてくださり、またこんなに尊い先輩の方々の前で、またこんなに幼い者が御言葉を伝えることのできる栄光の場を許していただき、ありがとうございます。この時間、主が私の考えや舌を主張してくださり、主の御言葉を完全に伝えることのできる時間にしてくださるよう願います。これらの祈りを、わが主イエス・キリストの御名によってお祈りしました。アーメン
ローマの信徒への手紙5章18節を見たいと思います。ローマの信徒への手紙5章18節から19節を一緒に読んでみましょう。
「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」アーメン。
では、ここで一人の罪人とは、アダムを意味します。アダムの堕落によって、すべての人が罪人となったわけです。そして、一人の従順した方とは、イエス・キリストのことを意味します。ところで、本文で、アダムの罪を不従順と言います。聖書には、私たちが生きていきながら、本当に多くの罪、私たちが知りながら犯す罪や知らないうちに犯してしまうさまざまな罪があります。その罪について、聖書では「罪とは~~こういうものだ」と説明してくれる箇所が多くあります。
ガラテヤの信徒への手紙5章19節から21節、ローマの信徒への手紙1章29節から31節、マタイによる福音書15章19節、マルコによる福音書7章21節、23節、このように色々な箇所がありますけれど、そのうち、まずはガラテヤの信徒への手紙だけを探してみましょう。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」アーメン。
私たちはこの世を生きながら、二つの関係性の中で生きていきます。その一つは、神さまと人間との関係性で、もう一つは、人間と人間との関係性です。ところで、罪を見るときも、二つに分けて見ることができますけれど、一つは私たち自らが犯す自犯罪、そしてもう一つはアダムから、そしてカインから先祖から受け継がれてきた源罪があります。
私たちはこの二つの関係性の中で、自ら犯す自犯罪を犯しており、またアダムとカインから受け継がれてきた源罪を持っているわけです。簡単にこの罪を清算できる方法は、この二つの関係性を回復させることにあります。そのため、まずは神さまを愛し、二つ目は兄弟を愛すべきです。そうすれば、私たちが犯す多くの罪を回復することができるのです。多くの人々が「人間が罪を犯したから、神さまが律法を与えてくださって罪をそれ以上犯させなくさせたのだ」と考えるのですが、しかし、創世記2章17節を一度見てみましょう。
「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
神さまが今禁止の法令を与えてくださっているのですが、これはアダムが、そしてエバが善悪の知識の木を取って食べる以前、堕落以前に既にこの禁止の法令をくださってるわけですよね。ところで、この戒めをなぜくださったのでしょうか。その理由を誤解して間違って捉えると、私たちが神さまについて誤解してしまうのです。世の中にある法律を見ても、交通信号やその他諸々の法律、法令などを見ると、それが私たちの自由を侵害するものではなく、私たちを、私たちの自由を守ってくれるものとなるわけです。神さまもこの死の道から、我々人間を守るために、この戒めというものを与えてくださったわけです。
しかし、ここで誤解してしまうと、まるで抑圧のように感じられ、神さまが人間をお造りになって、支配するためにそのようにされたということになってしまいます。
しかし、創世記3章を見ると、蛇が現れてこのことを利用します。創世記3章で、蛇が登場して、この保護の戒めを抑圧の戒めへとごまかすわけです。ここで、この蛇とは何か。この蛇については、ヨハネの黙示録12章によく書かれています。ヨハネの黙示録12章7節から9節を一緒に読んでみましょう。
「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」
年を経た蛇、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれるものとあります。サタンは、全人類を惑わす者です。そして、誘惑者ですよね。元々は善な存在として作られた天使でした。元々は天使だったのに、自ら変質して、サタンとなってしまったわけです。
多くの人々は「悪というのも、元々は神さまが天使をお作りになったから、このサタンも神さまがお作りになったのだ」と考えるのですが、それは違いますよね。神さまは善な存在としてお造りになったのですが、ただ善のみをお造りになったのですが、サタン、すなわち「ルシファー」自らが変質したわけです。ですので、このサタンの堕落についてよく考えてみる必要があります。人間のすべての罪はこのサタンから流入されたものであるため、私たちの罪を知るためにはサタンの姿を見ればいいのです。サタンがどのようにして堕落したかを見れば、私たちの罪を見ることができますし、また私たちの罪を見れば、そこからサタンの姿を知ることができるのです。
ユダの手紙1章6節を見てください。「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。」
ユダの手紙を見ると、この天使の犯罪とは、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨てたことであると説明しています。自分の住まいを見捨てたというのはどういう意味でしょうか。この天使の元々の住まいとは何だったのでしょうか。ヘブライ人への手紙1章14節を見ましょう。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」
天使たちは皆、神さまがその子らに仕えるためにお作りになった霊なのです。しかし、そういう存在が自分の居場所から離れたということ。その住まいを見捨てたというのは何でしょうか。これを知るためには、イザヤ書14章12節から14節を読んでみましょう。
ああ、お前は天から落ちた
明けの明星、曙の子よ。
お前は地に投げ落とされた
もろもろの国を倒した者よ。
かつて、お前は心に思った。
「わたしは天に上り
王座を神の星よりも高く据え
神々の集う北の果ての山に座し
雲の頂に登って
いと高き者のようになろう」と。
自分の居場所から離れたこと、自分の住まいを見捨てたということは、このように仕えるべき者が仕えられる場に行こうとしたことです。これが高慢というものですよね。そのようにして、このルシファーは高慢な心で神さまより高くなろうと、仕えるべき者が仕えられようとしたのです。それゆえ、サタンからの罪が入り込んでいる我々人間の中にはこういう高慢の心があります。ですから、物を盗んだりする、あらゆる罪には問い詰めてみると、自分が他の人よりもっと高い地位に着こうとする、自分があの人よりもっと多くのものを持とうと互いに争うわけです。他の人よりもっと多くの力を手に入れようとする、もっと所有するために争うこともあり得ることですし、それとも、力を保つために、他人を攻撃する、そういう形の罪もあり得ます。
わたしたちは旧約のコヘレトの言葉1章2節をいつも心に留めるべきです。皆さん、覚えてますよね?「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」
有限な存在である人間が、こんなに限られている人間が、神さまの座に行こうとする試み自体、空しいということです。努力して、万が一そこまで到達することができれば、一度やってみる価値があるのかもしれませんが、しかし、とてもその近くにも行くことすらできないということです。
中国の四字熟語に「鳥足之血」という言葉があるのですが、ごく少ない量という意味です。いくら努力しても、到底そこに到達することができないということです。だから、そのような空しい試みをして、死んで地獄に行ったら、どれだけ空しいことでしょうか。ああ、私って本当に何のために生きてこんなところに来てしまったんだろう。ああ、どれだけ空しいことでしょうか。ですので、神さまの道は我々の道よりも高く、神さまの思いは我々の思いよりもはるか高いものであるということを知ること、これこそ信仰の知恵なのです。
イエス・キリストの生を見ると、この高慢を禁絶しようと、とても努力なさいました。
フィリピの信徒への手紙2章5節を見ます。フィリピ2章5節から11節までです。じゃ、皆で一緒に読んでみましょう。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
イエス・キリストは私たちに多くの御言葉を与えてくださったけれど、御言葉を通してよりも実際の生き様を通して、その生を通して、私たちに、このような自分を無にし、自分をへりくだり、自分を否定する、こういう高慢を禁絶する姿を示してくださいました。
イエス様は元々神の身分にありながら、神さまと等しい方ですよね。あんなに罪のない方がこのような罪悪の世に介入して来られ、すべての地位を見捨て、自らすべての罪を背負って行かれました。そして、神にも人にも見捨てられた十字架の場でさえも、神さまを愛し、また神さまの御心に従い、そして、私たちを愛する心で、そのすべての憎しみを勝ち、すべての苦痛に勝ち、勝利を収められました。
そのようにして、アダムの不従順をその十字架の上で回復されたのです。私たちがこの悪魔の魔性、この悪魔の魔性と戦うためには、戦って打ち勝つためにはどうすればいいでしょうか。じゃ、エフェソ6章10節から19節まで皆で一緒に読んでみたいと思います。
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、「霊」に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
では、このように私たちが戦うのは、悪魔、サタンと戦うこの戦いは、血肉の戦いではありません。血肉の戦いではなく、この戦いは本当に霊的な戦いなわけです。この霊的な戦いで勝利を収めることのできる道は、わたしたちの行いによるものではなく、ただ神さまの力、神さまの御言葉、それのみをもって勝つことができるのです。
それでここを見ると、14節に、「立って、真理を帯として腰に締め」とありますが、これには過越祭に子羊を食べる形が入っています。急いでいるということです。いつも緊張感をもって、この戦いに備えなければなりません。真理を帯として腰に締め、このように緊張感をもって立ち、いつも前へ進められるような姿勢を取って、また正義を胸当てとしてつけ、あ、そういえば、これが今日の試験問題でしたよね。試験に備えるためにもっときめ細かく勉強していたならよかったなあと後悔してしまいました。それで、もう一度この部分を見たいと思います。ここで、義としてくださるのは、私たちのいかなる行いや、私たちがある律法を守ったことで、何らかの条件を満たすことによって、義とされるのではありません。本当に死ぬしかない罪人であるが、にもかかわらず、その罪までも受け入れてくださる神さまの大いなる愛、その恵みによってのみ、わたしたちが義人となれるのです。神さまはいつもこの正義の胸当てを着けてくださるんですよね。着けてくださるのですが、しかし、サタンはこれをしきりに外そうとするのです。わたしたちが御言葉を聞いて変わる前の以前の生を考えると、皆本当に罪人です。取るに足りなく薄汚い姿です。そうでない方も、とりあえず、そういう姿を皆持っているのです。しかし、ここで義としてくださったのが、わたしたちが変わったから、わたしたちが何らかの努力をしたから、それで変わったから義とされたわけではないのです。
こんなに罪人なんですが、その罪的な姿までも神さまが受け入れてくださったことで、私たちが義人となったわけですので、相変わらず、以前の生の、そういう罪的な習慣、罪性を依然として持っています。そのため、私たちは御言葉通りに生きようとするのですが、難しいときが多いし、御言葉通りに生きようとしても、自分でも気づかない内に習慣のように破ってしまう姿が多くあります。その破る姿を、それを、神さまはすべてご存知です。あれほど悪しきで、私たちは弱く、一度に変わることができないということを、神さまがすべてご存知なのですが、それを利用して、サタンが攻撃してきます。
「本当にあなたが義人なのか?本当にあなたが綺麗になったのか?ほら、あなたの姿を見なさい。何が変わったのか?何一つ変わってないじゃないか。変わろうとしていると?変わろうとしているんだと?それって私がこれまで何度聞いてきたと言うのか。」
サタンがこのように攻撃してくるときに、私たちは本当に挫折しやすく、そこに縛り付けられ、本当に止められない神さまの歴史を遅延させるような姿を持つしかないのですが、サタンもこの正義の胸当て、神さまが着けてくださった正義の胸当てを直接外すことはできません。私たちが自ら外すようにしきりに惑わすのですが、しかし、神さまは私たちの不足な姿をすべてご存知であるということです。
このことを知り、私たちの弱さの中でも、なおさら神さまに依り頼み、神さまの力に頼ってその力によって打ち勝っていくべきでしょう。そして、この戦いは本当に私たちが至らないため、一気に私たちが変われるのではありません。ですので、いつも諦めずに続けて変わろうと努力し、いつもぶどう酒に衣を洗うことを忘れてはいけません。
このようにすることで、わたしたちがサタンの魔性に立ち向かって、打ち勝つことができるのです。じゃ、この御言葉によって武装し、じゃ、創世記3章を見ますと、蛇と女の戦いの話が出てきます。これは霊的な戦いです。このように御言葉をもって戦うことになるのです。ここで、女とは今日におけるキリストの教会やキリストの新婦、イエス様を信じて神さまに従おうとする、そういう人々のことを意味します。サタンは神さまの民に対して、他のものをもって挑戦してくるのではなく、御言葉を用いて挑戦してきます。ですので、私たちが御言葉でもって武装して、この熾烈な言葉の戦いにおいて勝てるべきです。
では、創世記3章2節から3節を見たいと思います。皆で一緒に読んでみます。「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
では、エバがサタンからの最初の攻撃に対してはこのようによく対処、防ぐことができました。神さまが与えてくださった御言葉を知ることでよく対処できたのです。ところが、4節を見ると、蛇がそこにもう一つの言葉を蒔くのです。神様は、「決して食べてはいけない、食べると必ず死んでしまう」とおっしゃったのに、蛇は「食べても決して死ぬことはない」と言いますよね。このように2つの言葉を作って、エバを混沌の状態へと引っ張っていくのです。これが単にエバだけの姿ではないのです。今日において悪魔、サタンと戦っている霊的な戦争の真っ只中に置かれている私たちの姿なのかもしれません。じゃ、サタンがイエス様に対して試みる場面からもわかるように、サタンが御言葉を知らないわけではありません。御言葉を本当によく知ってます。よく知っていて御言葉をもって攻撃してくるから、私たちはサタンよりももっと沢山知らなければならないでしょう。
もっとよく知って蛇の頭を打つべきです。じゃ、5節を見ますと、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と書かれています。蛇が自分の変質の原因であった高慢をエバに植え付けている場面です。「目が開け、神様のようになる」、神様だけが、この言葉の中には、神様だけが、この世を主管され、分別するために、あなたがたには制限されているそのような権限に対しては制限しておいた、という風に攻撃してきます。それで、こういうエバの霊的な状態、心理状態、内面的な状態を見ると、神さまに対するねたみ、嫉妬の心がこのように生じるのです。それで、あ、神さまが私たちを除いて、一人で何かをなさろうとしているのか、こういうねたみ、嫉妬の心が生じます。それで、「そうしたら、私もやってみよう。そのようにして、私も神さまのようになってみようではないか」という高慢が生じます。
このようにして神さまの戒めを破るようになります。では、罪の根っこ、すなわち、アダムとエバの罪は神さまの御言葉を信じないで、蛇の言葉を聞いたことです。そのため、不従順なのです。エデンは神さまの愛と御言葉を加減なく受け入れる信仰の園となるべきだったのに、しかし、神さまの御言葉を信じることができず、蛇の言葉を信じてしまったため、不信の園になってしまったわけです。
善悪の知識の木の実を取って食べた後、エバの感情状態を見ると、「あ、こうしてはいけなかったのに、またやってしまった。あ、わたしって本当にみすぼらしく、わたしはやっても駄目なんだ」という感情になりますよね。どうして分かるのか。エバの罪が単にエバの罪ではなく、わたしたちが犯している多くの罪であるため、わたしたちが罪を犯した後はどうですか?このように羞恥心が感じられるじゃないですか。そして、蛇に対しては「あ、騙されてしまった。騙された」というような、後悔と嘆きがエバの中にあります。しかし、アダムとエバがこのような感情を通して、神さまにもっと近づくべきだったでしょう。神さまにもっと頼り、神さまに自分の罪をさらけ出して、それを清算すべきだったです。しかし、アダムとエバはそうすることができず、それによって神さまから離れたのです。神さまから、神さまの視線を避けて隠れました。しかし、本当に神さまがこのことを知らないでしょうか?神様が知らないでしょうか?すべて知っていながらも、そういう人間の罪性を知っていながらも呼ばれます。「アダム、アダム、どこにいるのか」
では、このように呼ばれること、呼ばれて罪に対して、罪をさらけ出させます。これが本当に裁きの御言葉を聞くと、辛く心刺されるのが多いのですが、この裁きの御言葉を下さるということ、これはわたしたちの罪をさらけ出させて、清算しようとされることだから、裁きを恐れる必要はないでしょう。このアダムとエバは神さまの顔を避け、神さまの前に出ることを恐れました。しかし、神さまがアダムを呼ばれるこの場、この場はアダムが既に神さまを離れている状態です。神さまから離れている状態で、神さまと人間が分離された場です。神さまは、神さまはそれにもかかわらず、愛してくださっているのに、神様の愛を背いた場、すべてを神さまの苦労によって造られたすべてを値無く与えてくださったのに、それを、その愛に対するアダムの無責任、そういう場なのです。
創世記3章11節、「彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』
罪を解決してくださるために、罪をさらけ出させたのに、このアダムは罪を転嫁します。ところが、それがエバにだけでなく、これまた神さまにも罪を転嫁します。「神さまが女をわたしと共にいるようにしてくださったから、神さまが与えてくださったこの女がわたしに食べさせたから、この罪は結局は神さまがわたしに犯させた罪だ」といって、この罪を神さまに転嫁します。
では、ガラテヤの信徒への手紙5章13節を読んでみたいと思います。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」
この御言葉をいつも記憶しなければなりません。イエス様は罪の無い方ですが、わたしたちに近づいて来られ、たずねて来られ、わたしたちの罪をすべて背負って行かれました。イエス様はそのように罪の転嫁、罪を他人に回したりしなかったのです。本人が直接すべて背負って行かれました。それで、この御言葉をいつもよく覚えて、わたしたちがイエス様の生き様についていこうと、イエス様が示してくださった生き方に習って、わたしたちにある罪を清算しようとする生き方をして生きるべきでしょう。
創世記3章14節から15節を見ますと、「主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。』
では、ここを見ると、蛇と女の子孫との戦いについて出てきます。女の子孫とは私たちのことでしょう。この時代を生きている蛇の敵、わたしたちのことを指しているのです。蛇がわたしたちのかかとを砕くとあります。かかとには、アキレス腱があります。わたしたちが垂直的に立つために、直立するためにはこのアキレス腱が非常に大切です。サタンが攻撃してくるのは、わたしたちの体を攻撃したり、肉を攻撃したりするのではありません。わたしたちが正しく立とうとする、神様に垂直的に、垂直的なことを立てようとすることを攻撃して、それを倒そうとするのです。
では、ところが、いつも攻撃というのは御言葉を用いて攻撃してくるわけです。ですから、私たちが御言葉をまともに知り、そして、この罪を徹底して見なければなりません。罪を徹底して見て、本当に罪と妥協してはなりません。
いつも私たちの中に依然とした世の罪性が残っていることに気づき、その罪性らに注視し、いつも直していこうとすべきです。そして、御言葉で武装して、もう一度申し上げますが、蛇の頭を砕くべきです。では、そのようにして蛇と私たちとの戦いは血肉の戦いなのではないのです。ですから、御言葉の剣によってのみ蛇を砕くことができるのです。御言葉こそが蛇に打ち勝てる武器になるわけです。私たちは本当に死ぬしかなかった罪をもっていますが、既にイエス様が私たちの罪を無いものにしてくださり、私たちを義としてくださいました。私たちは皆聖化の過程を歩んでいる時点において、この罪を、私たちの中にある罪を忘れてはいけません。私たちが義とされたのは、私たちの中の罪がすべて消えたわけではないからです。それを義としてくださったのは、ただ神さまの恵みです。ですので、私たちの中にある罪をきちんと見て、それを砕こうとすべきです。いつも御言葉によって武装していなければなりません。蛇は気づかないうちに噛んでしまうからです。ですから、いつもこのようにサタンに対して、警戒を緩めてはいけません。この聖化の過程を本当によく歩んで、神さまが約束してくださる天の御国に入る皆となるよう願います。
お祈りします。
愛と恵み深い父なる神さま、本当に感謝いたします。このように私たちは聖化の過程を歩んでおりますが、私たちが義とされたのは、いかなる行いによるものではなく、また私たちが完全に清められたからではなく、ただ値なく与えてくださる神さまの大いなる愛によるものであることを私たちが忘れないで、以前の罪性をいつも警戒し、サタンを、サタンの存在が、サタンからの攻撃にいつも緊張感をもって注視できるよう、そうすることでサタンに打ち勝てる御言葉の剣をいつも磨くわたしたちとしてくださることを願います。私たちがこの聖化の段階を本当によく歩んでいって、終局には、本当に神さまが約束してくださった栄光の段階に至ることのできる皆となるよう導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致しました。アーメン。
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