2003年1月28日付けの大韓イエス教長老会(統合)の研究報告書を紹介します。原文は”삼신론에 대한 연구보고서”です。
http://pck.or.kr/PckCommunity/NoticeView.asp?ArticleId=60&TC_Board=19538&page=6&Depth=1
注)文中のC牧師とは崔三卿牧師のこと。アルファベット表記Chae Samkyungの頭文字で表されている。
三神論についての研究報告書
1. 三神論
三位一体の神の本質の統一性(単一性)を否定するものでAD550年のアスクナゲス(Johannes Askunages)とヨハネス・ピロポノス(Johannes Philipones)を中心とした単性論者たちによって主導された理論である。「キリストの本性はと人性が混合された単一の本性であり、三位一体の中には三つの神的本質(ousiai)がある」という主張だ。
ロスケリヌス(Roscellinus 1050-1128)は、「三位格は一つの意志と力を持っている」と主張して三位一体の統一性を維持しようとしたが、三位格が分離された3神の意味をより強調することで三神論に落ち、第4回ラテラノ公会議(1214)で非難された。
アントン・ギュンテ(Anton Gunthe 1783-1863)は、「古代多神論的宗教の三神 - ストア的『ロゴス』(Logos)と新プラトン的『アヌス』(Nous、異性)と絶対者の自己顕示における三重の運動」を主張したヘーゲル(Hegel)の汎神論的な主張に反対して「キリストの本質は三重的であり、認識を通し、お互い引き寄せる三つの本質が形式上の統一を成す」と主張した。ギュンテの主張は1857年にローマ教皇ピウス9世によって非難された。
ところが留意すべき点は、たとえ三位一体に反対して非難された人々の同じ主張は「この教義が唯一神論を犠牲にして三神論にする」ということだ。これらの主張は全く別の人間の自我の形状から始まった神的人格性の間違った概念に発展するという点だ。つまり神性が定義上の人格でなければならないということと三位一体は、それぞれの人格を所有して個別の存在であり、それぞれの神を所有したこと三神になるという主張である。三位一体を分離的な意味で理解しているのだ。
これに対してギフォード(Gifford 1918)は、「三位一体の神の人格より神の中に存在する人格的に理解しなければならない」と主張した。つまり三位格を一つの人格として見ることは明らかに間違っていたことや、しかし、三位格を一つの人格と見るよりは三つの位格がすべて人格を持った存在でなければならないということだ。
これらの努力は、三神論や多神論を排撃して、異教世界とは別のキリスト教の最も貴重な唯一の信仰、神の単一性を維持しようとすることであった。
明らかなことは、聖書の啓示主であり、最高のもので、古代世界の多神論と実際の無神論に反対して全体の唯一の信仰、神の唯一性の真理を提示している。
2. C牧師の三位一体主張批判
C牧師の三位一体神観を分析するために、彼がウイットネス・リー側(地方教会)と地上の議論を行った内容(月刊教会と信仰、96年12月号-2001年11月号)を参考にする。
3. 問題の発端
C牧師は地方教会の三位一体の主張を批判しながら、教会と信仰96年12月号136側には、次のように主張した。
「ウイットネス・リーは『神の三人格は三霊がなく、一つの霊』で三人格がした永安の三日神になったという言葉がそうだ。彼はそれが人格という用語を使用する場合は、 『三つ』という言葉を使っているが、霊を言うときは、 『一つ』霊の中に三一、神様と話している。その後、旧約聖書や新約聖書や、父なる神様も一つの霊であり、聖霊様も一つの霊なのにどのようにこの二人一つとするのか。だからウイットネス・リーの霊の神を主張している点がまさに様態論的三位一体と」と主張した。
これに対して、地方教会側が「『霊 』は、神の本質を指す言葉としてC牧師の主張通りにすれば、父なる神と聖霊は、二本質を持った存在になることである正統信仰に反するだけでなく、異端的なものであり必ず変更する必要がする」(教会と信仰97年3月号)と批判しようC牧師は、教会と信仰97年6月号で、「『神は三つの霊たちではなく、一つの霊』という主張は異端的なもので、神は一つの霊ではなく三つの霊たちの神になるべきだ」と重ねて主張した。
これに対して、地方教会側はC牧師は「三位格の神の本質(霊)を否定する三神論者である」(教会と信仰97年7月号)と批判すると、教会と信仰97年8月号に「ウイットネス・リーが一つの霊という言葉を神の本質について話したことならば...この言葉が正しい」としぶしぶ認めて「しかし、ウイットネス・リーは『一つの』霊という言葉を本質の言葉として使用していない」と再び批判した。
4. C牧師の主張の問題点
上記のような両側の議論で冒頭に明らかにしたように、ウイットネス・リー側の主張についてはこれ以上言及する必要がない。その理由は、C牧師の主張がなくても、ウイットネス・リー側の主張は明らかに様相論的主張なのでこれ以上批判する必要がないからである。したがって、C牧師の主張の問題点だけを見てみようと思う。
「もし霊という言葉が本質の一体感を示す言葉だと合っているとすることができる」が、C牧師は明らかに神を霊とするときは、本質の一体感を示すことを知っていたとみられる。またイ・ジョンソン博士の論文を引用しながら、主の神は、霊的な本質を持つ方であることを認めている。
「イ・ジョンソン教授は神を霊とし...霊の三位一体の神の存在形式を意味する....神は最初からそのあり方に二つの特性を持っていた。一つは、三位一体という形式であり、他の一つは、精神的な存在だということだ。エホバ霊的な本質を持っていたので...」(教会と信仰2001.11月号)
またイ・ジョンソン教授は自分の文(上のからP141の上部)から「しかし、三位一体の神は、本質的に霊であるということだ」と強調しすることで、神を霊と表現する例は、神の本質の一体感を示す意味であることを明らかにしている。
C牧師は「私は三位一体の神の相互内在を否定せず、本質の一体感を信じて人格の区別性を信じる」(教会と信仰97年11月号)とした。
次に、「父(神)も一つの人格として霊であり、御子も一つの人格として霊であり聖霊も一つの人格として霊だ。しかし、三つの霊ではなく、一つの霊だ」としなければならない。
しかし、C牧師は「御父も一つの人格としての霊であり御子も一つの人格としての霊であり聖霊も一つの人格として霊だ。それゆえ、神は、(一つの霊の神ではなく)三つの霊らの神である」と主張している(教会と信仰96.12月号)
C牧師は、自分のこのような主張が三神論に該当するという攻撃を受けると、[教会と信仰97年8月号]では、「筆者が、それぞれの霊と言った言葉は3つに属する部分として言った言葉だ。つまり、父なる神様も一つの人格として霊であり御子なる神も一つの人格として霊であり(もちろん御子の神だけは肉を取ったにもかかわらず)、聖霊も一つの人格として霊という言葉だ」と初めて主張した三位一体が「一つの霊だ」と巧妙に言葉を変えて96年12月号で主張した内容で、「一つ」という言葉を抜いてしまった。これは彼の最初の主張が問題があることを示している。すなわち、神は三つの霊たちの神ではなく一つの霊の神であることを認めていることを示すだろう。
また、「それぞれの霊と言った言葉は三つに属する部分としての言葉だ」と主張したことも問題になる。「父の霊、聖者の霊、聖霊が三つ(三位一体)に属する部分である」という主張は、三位一体論では不可能だ。なぜなら「三位一体が三つに属する部分という表現は、三位一体の神は、三人が合わせて完全な一つになり聖三位の各位が独自に無傷ではないという意味になるからだ」
より詳しく見てみると
C牧師はウイットネス・リーの三位一体論を批判する文でこう述べている。「ウィットネス・リーは、たとえば人格という言葉を使用するときは、『三つ』という言葉を使っているが霊のことを言うときには『一つの霊の中に三一神と話している。その後、旧約聖書や新約聖書や、父なる神様も一つの霊であり、聖霊も一つの霊なのにどのようにこの二人一つとするか」(教会と信仰96年12月136頁)
C牧師の主張は、神の父もした霊にくく、聖霊も一つの霊として、神は二本質(霊)をお持ちの方で、「この二人は決して一つになることができない」と主張することで自分が主張した神は「一つの霊でなく、三つの霊であり、決して一つになることができない」と主張しているのだ。これらの主張は、前述した「霊を神の本質を表す言葉なら正しい」「私は神の相互内在を否定せず、本質の一体感を信じる」は、自分の主張をひっくりかえすことで、彼の主張は、三位一体の神は霊がそれぞれ別の本質を持った三つの神という意味になってしまう。
より詳しく見てみると明らかに彼は「御父も一つの人格としての霊であり御子も一つの人格としての霊であり聖霊も一つの人格としての霊であられる。それゆえ、神は三つの霊たちの神なのだ」と主張した。彼の主張では人格と霊が同質だ。したがって、人格=霊である。人格はペルソナ(persona)を翻訳した言葉だ。したがって、霊もペルソナだ。したがって、C牧師の主張は「(神は)三(霊)ペルソナというのだ。これがどのように三神論になるのか?」という主張だ。
前述したように、「神を霊だ」というとき、これは神の本質(本性)を示す極めて限定的用語である。したがって、C牧師自身も「三位一体の神は、本質的に霊だ」と認めた。このように見ると霊はペルソナではなく、サブスタンシア(substantia) - すぐに本質(本性)を表す言葉 - がなされなければならない。しかし、C牧師の主張どおりだと、「父も一つのペルソナでひとつのサブスタンシアであられ、御子も一つのペルソナで一つのサブスタンシアで、聖霊も一つのペルソナで一つのサブスタンシアだ。それゆえ、神は三つのサブスタンシア(本質)である」ということになる。
C牧師は明らかにそれぞれの本質を持つ「三つの霊の神」、すなわち三つの神を主張しているので、彼の主張は三神論であるとの誤解を十分に受けることがありうる。
「三位一体論で」ペルソナを「霊」と表現するのは誤りで、神論で「神は霊だ」というときはいつも霊は、神の属性 – すなわち本質を示すものである。かりに「霊」という言葉を一つの神様の中で人格の個体を表現する意味で使うことができるが、しかし、三位一体の神を三つの霊たちの神と表現することは三位一体論では適切でない。
したがって、「神も一つの人格で一つの霊であり、御子なる神も一つの人格で一つの霊で、聖霊も一つの人格で一つの霊だ。それゆえ、神は三つの霊たちの神である」という主張は、三神論の根拠となることがあり、これは結局、三つの神だと言うことになり、私たちが信じて告白するアタナシオス信条と矛盾する。
C牧師がむりやり主張する理由は何ですか?
彼は地方教会側を批判しながら、「神の三人格は三つの霊ではなく、一つの霊」(神の働き、p16)という地方教会側の主張が様態論と批判している。それによると「神の三人格が一つの霊の中に属することができないだろう。したがって、父なる神も一つの霊であり、聖霊も一つの霊なのにどのようにこの二人を一つとするのかと反問し、それゆえ、神は一つの霊ではなく三つの霊でなければならない」ということだ。 (教会と信仰96.12月号)。
地方教会側で「霊は、神の本質を語ることで、神の三人格は三本質(霊)以外のいずれかの本質(霊)を持っておられる。したがって、C牧師の主張は三神論だ」と攻撃し、C牧師は「霊が神の本質のことを言うのであれば(地方教会側の主張)が正しい。ただし、人格として父なる神様も一つの霊であり人格として御子なる神も一つの霊であり聖霊も一つの霊であられる。それゆえ、神は三つの霊たちの神である」と明らかにし「霊」を神の本質を表す言葉として認めながらも、「神を三つの霊の神」という主張を曲げずにいる。彼が自分の主張を曲げない理由は、地方教会側の三位一体論が様態論であることを断罪するためにである。あえてこのような主張をしていなくても、地方教会側の神観は様態論だ。
C牧師は自分の主張が三神論と批判を受けると「自分は一本質に三人格者である、聖霊三位一体の神を信じる」と自分の信仰を告白しながらも、「神は一人なのか、細分か?」というテーマの下、「カルバンも、神が一方だと強調したが、三つの方であることも言った。父と子と聖霊は、一人の神様であるにもかかわらず、御子は父ではなく、聖霊は御子ではない。3人は独特の特性によって区別される」(2001 11月号)と主張してカルヴァンも三分神を主張したかのように主張している。
C牧師は、自分が使用している「分」という言葉は、「ペルソナ」という言葉を翻訳したもので、これは私たちが「位(格)」に翻訳して使用する言葉である。 C牧師は「『分』という言葉を翻訳は、誤解の素地があると思う。 (したがって)、カルヴァンのキリスト教綱要原文は韓国語の『分』という概念がない」と言いながらも「カルバンも、神が...三つの方であることも話した」とつじつまが合わない主張をする理由は理解しにくい部分である。
C牧師は、自分の主張を正当化するために、韓国の教会や世界の教会がややもすると三神論的な意味で受け入れられる危険性があるので使用しない「三つ分」という表現まではばからずにいるように見える。
C牧師は「アタナシオス信条の『御父も神であり、御子も神であり、聖霊も神である。しかし、神は三つではなく、一つだけ存在する』という意味は、本質の単一性を主張するものであることを明確に知ることができる」とした(2001.1月号p.144)この記事は聖三位の神の本質の単一性を認めたことだ。
教会が正統教義として認められているアタナシオス信条は、神を本質的に一つの方だと強調する。しかし、C牧師はアタナシオス信条の本質の単一性を認めながらも、同時に「神は三つ(三霊)」と主張する二律背反的な主張をしている。
C牧師の主張どおりなら「父も神であり、御子も神であり、聖霊も神である。それゆえ、神は三つの神の神である」としなければならない。しかし、明らかにアタナシオス信条は「一つの神のみぞ存在する」と明らかにしている。
また、C牧師は、自分の主張を言い訳するために「神は複数で表現できないのか?」と質問を投げて「そのように見ていない」と言った。 C牧師は、神を複数の神として表現できるという意味である。そして、その根拠として「創世記1:26の神を『われわれ』という複数の記録した」と主張している。「我々は、我々のかたちに似せて」もちろん、この聖書の箇所は、神を「われわれ」という複数で表現している(我々は、1人称名詞)。しかし、神が皆さんだから、「私たち」という表現をしたことがない。明らかに解釈(本人がここで解釈という言葉を使用するのはあくまでも注経(聖書を解釈する学問)神学的側面から可能な解釈であるだけで聖書の記録の本来的文学的事実ではないからである)で「私たち」は、三位一体の神を表すものと解釈することもできる。しかし、「私たち」という表現は、「ヘブライ人たちは壮大なことを示すときによく複数形を使用することで強さを表すヘブライ文学表現である」(聖書はどこでも神を表す複数形の名詞 – 例、エロヒム - を神々と呼んでいない)
つまり、神を「われわれ」という一人称名詞で表現したのは、複数の神を示すためのものではなく、神の荘厳であることと強いことを表すヘブライ文学表現なのである。
ボルコプ(Louis Verkhof)は「エロヒムや(神の)複数的な表現は、神の中にある人格複数性(plurality)を指摘しているとしても、三位一体の証拠として確保を受けていない」(ボルコプ(Verkhof)2巻神論p154)と述べている。
それでも、まるでこの聖書の箇所が神を複数で表現できる根拠引き揚げ歪曲して引用しているのは、C牧師自分の主張を正当化するためのものと思われる。
繰り返される言葉だが、C牧師がウイットネス・リーの三位一体論を批判しながら、主張した「神は一つの霊の神ではなく、三つの霊の神である」という主張は、霊が神の本質を意味するものであることを認めながらも、「神を三つの霊の神」と主張するのは三神論的主張に十分に認識されることがある。
C牧師は自分の主張が間違っなら「統合側教団のウイットネス・リーに対する非難が誤っているとしなければならない」と主張した(2001.11号p144)。これはウイットネス・リーを異端として非難するとき、総会に報告したレポートがC牧師自分の文だったことを間接的に認めたのだ。
しかし、明らかにすべきことはウイットネス・リーを異端性があると決定した本教団の決定は決して三位一体論だけに限ったことではないので、自分の主張が間違ったならウイットネス・リーの異端を非難が誤っているとするという主張は、自分の主張は即、本格的な異端非難の物差しだと言うことであり問題があるとされる。
5. 聖霊論の問題
C牧師の問題は、三位一体論だけではない。彼は聖霊論でも聖書の教えと、また私たちの教団の教義や信仰告白とは別の主張をしている。今、彼の主張する聖霊論の問題を論じてみよう。
C牧師は、教会と信仰97年9月号p142-144でユン某牧師の啓示論を批判する記事では、
ユン某牧師の「聖書啓示は使徒の時代に終わったが、神のみわざは持続している」という主張に反論しながら、「啓示が使徒時代に終わった場合、みわざもやはり終わったとしなければならない。しかし、この点において(ユン某牧師が)あまりにも強硬な立場を持っている」と主張している。
C牧師の主張は世代主義的原理主義者たちのごく一部が主張する奇跡終了理論的に「聖霊の働きは内的使役と外的働きに区分され、聖書が完成される前に、この二つの働きが並行されたが、聖書が完成した後には、聖霊の内的働きが続く」という理論である。
このような主張は今も続いている聖霊の力と賜物とみわざの聖書の教えを否定する非聖書的主張であり、ウェストミンスター料理問答第31章「聖霊について」と、第4項及び1986年に採択された本教団の信仰告白書第第4章「聖霊」第4項及び第5項に記載された「聖霊の働きと賜物」を否定するもので、本教団の信仰と決意に反していると主張する。
聖書が教えているとおり、聖霊の賜物は、ほとんどの人間の理性と能力を超越した奇跡的なものであり、これらの聖霊の賜物は、「信じて救われた者たちの奉仕のために贈り物として信者たちに多様な与えられるもの」である。
「みわざが終わった」と聖霊の特殊な賜物も終結したとする。しかし、明らかに、聖霊の特殊な賜物は今でも信じている人たちに与えられている。したがって、C牧師の主張は、いくつかの神学者たちの理論を聖書よりも優位に置いて、聖書を否定する異端的主張としか言えない。
C牧師自らの教会と信仰2001年9月号、p144で「もちろん奇跡とみわざを本質的に否定すると問題です。神の力を否定する結果になるからです。そうなれば、理想主義者になって異端に陥る危険性がより大きくなります」と奇跡を否定することが、神の力を否定する誤ったことを自ら認めている。
しかし、C牧師が言っている「奇跡とみわざを本質的に否定すると問題になる」という意味では、 「聖書に示された奇跡とみわざを否定すれば、問題がない」というものと考えられ、他の面で解釈すると聖書の啓示が完成される前に(福音を効果的に証しするために)奇跡とみわざが多く現われたが、聖書の啓示が完成した後は、実際にみわざも終わったと、本来的な主張を繰り返しているに過ぎないようだ。
明らかにC牧師は「異端という言葉は...教義的な面で規定する言葉」(教会と信仰97年6月号)と自ら定義を下に置く。それとともに、一方では、「筆者(C牧師)は、異端批判や規制を...教義だけという式の言葉は主張したことがない」(教会と信仰2001年8月号。p144)と述べている。まずC牧師の嘘を指摘せざるを得ない。「異端とは教義的な面で規定する言葉」としておいて「そういう主張(を)したことがない」と言葉を変えている。
彼の主張どおり教義的な面から離脱したりうまくいかないとき異端になる。「奇跡とみわざを否定することは聖書を否定するものでありさらに聖霊のみわざ - 賜物を通じた神の歴史 - を否定するもので、これは本教団の信仰告白であり、教義を否定するもので聖霊論で明らかに間違っただろう。もう一つ付け加えると、奇跡終了理論は学者たちの学術主張であるだけで教義や聖書の教えではない。 C牧師は聖書の証拠や教団が定めた信仰告白(これはもう一つの教義的な側面が強い)より、一部の学者たちの誤った主張を信奉する非聖書的な信仰の持ち主だと言わざるを得ない。
6. 結論
(1)三位一体の神は、本質的に霊であられる。霊ペルソナ(位格)がなく、サブスタンシア(本質)を表す言葉だ。三位一体論でペルソナを霊に表現することは誤りで、神論から「神は霊だ」というときはいつも霊は、神の属性、すなわち本質を示すものである。
かりに霊という言葉をした神様の中で人格的特性を表現する意味で使用することもあるがしかし、「三位一体の神を三つの霊の神」と表現するのは三神論だと指摘することができる。
したがって、「父なる神様も一つの人格で一つの霊であり、御子なる神も一つの人格とで一つの霊であられ、聖霊も一つの人格で一つの霊だ。それゆえ、神は三つの霊たちの神なのだ」という主張は、結局、神は三つの神になって三神論の根拠となり、すべてのキリスト教会が信じて告白するアタナシオス信条と矛盾する。
(2)「父の霊、御子の霊、聖霊がそれぞれ一つとしたのは三つに属する部分」という主張は、神を三等分して御父、御子、聖霊をそれぞれ1/3に分離させること聖三位が一つの神的本質の互いに区別され分かれたり、混合されず、相互属することなく完全である個別実在を損傷させ、三位一体が一つになる時だけが完全な神になることがあるという主張に完全である三位一体の神の存在を否定する結果になる。
(3) 「霊」が神の本質、すなわち父、子、聖霊が一つの霊の神を意味することを認識しながらも、「旧約聖書や新約聖書や、父なる神様も一つの霊であり聖霊も一つの霊なのに、このうし、この二人一つとするか」という主張は、神の霊と聖霊は、それぞれ別の霊という意味で父の霊と聖霊の一つで居られることを否定して父の霊聖霊がそれぞれ別の霊と主張して理神論、あるいは三神論の誤謬に陥っている。
(4)「聖書の完成とともに聖霊の賜物やみわざも一緒に終わった」と見る奇跡終了理論は根本主義性向の一部改革派が聖霊論においてこのような理論を主張している。聖霊の力とみわざを否定することは神的の能力の自由を特定の期間に限定させることで、このような主張は、非聖書的であるだけでなく、ウェストミンスター教理問答第31章「聖霊について」の第4項と私たちの教団の信仰告白第4章「聖霊」の第4項及び第5項に記載された「聖霊の働きと賜物」を否定する主張である。聖霊の働きとみわざは神様の特別な活動で今でも続いており、聖霊は、様々な賜物を神の聖徒たちに与えになり、福音の働きをされているという信仰が、私たち長老教会の信仰告白であり、主義である。奇跡終了の主張は非聖書的であり神学的に誤りである。
(5)上記のような主張をするのは信仰の問題というよりは、その表現が適切でなかったと思われ、また研究結果が出た場合、して中会に送信周期を中会が請願したので、して中会にとって適切な措置を取ることにするが正しいと思われる。
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