2008年3月10日月曜日

実録 教団紛争史 第五章 暴力の嵐・一九七〇

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫
1.世界同時革命の幻想
 九・一、二事件のあと、教団は質的に崩壊して行ったのは、前項で示した。
 一九七〇年は、その意味で深く記憶されなければならない。大阪万博は六千万人以上が入場し、無事に進行した。キリスト教館(西村次郎館長)には二三二万人が入場し、全員に聖書を配布した。
 反万博で立上った造反者たちは、当面の攻撃目標を失ったことになる。ただ運動の指導者(堀光男、桑原重夫他)は、本来の目的である世界同時革命にハンドルを切り換え、青年達を扇動し続けた。万博反対などは、都合よく題材としてあっただけのことだった。
 「教会は革命の拠点である」と主張して極左集団(全共斗中核派・革マル派等)と連帯した。その上で、教団と教会とを攻撃目標とし、一つ一つ倒して行った。造反に乗っ取られる教団の機構、教会、学校が相い次いだ。
 東京神学大学のバリケード封鎖は全共斗革マル派との連携だった。
 青山学院大学、関東学院大学、明治学院大学などでも激しい闘争となった。青山学院大学と関東学院大学の場合は、一部教師たちが全共闘と組んだため、紛争が解決しにくくなり、神学科の廃止(一九七二年度)となってしまった。日本基督教団の大きな宝が失われてしまった。木田助教授、高尾助教授などが果した負の行為を忘れてはならない。殆んどの場合、踊らせた側の人はこの世的に成功し、踊らされた学生たちが道に迷ったことも忘れてはならない。教会が青年を失った理由にもなっている。

2.第一六回教団総会
 九・一、二事件の結果、飯教団議長が約束させられた臨時総会は、常議員会も承認させられた。その経過については前回は表と平山照次見解で示した。
 第一六回臨時総会は、一九六九年一一月二五、二六日、山手教会を会場として開催された。
 開催する必要があったという当時の判断は、歴史として整理してみると、明らかに誤りであった。
 そのことを示す指標は多いが、教団の公式記録から拾って見よう。
 牧会手帳(教団発行)の年表の記事で見ると、次の通りとなっている。
 『第一六回臨時総会は、議案(「日本万国博覧会キリスト教館に関する件」の決議を本総会において再検討する件。第一五回教団総会議案第55号の決議を再確認し、これに付帯決議を付する件。万国博キリスト教館反対決議に関する件)の上程はされず、二日間にわたる討論は飯議長による総括表明をもって終結』
 教団発行の年鑑の「教団の記録」を見ると、この総会について触れていない。なにも決めないし、祈りを持って始め、祈りを持って終るという必須の大原則もあやしいのだから、書きたくないという思いは分かるが、それでは歴史ではない。
 この総会は、終始、暴力が支配した。ヘルメット集団が通路をうめた。100名を越える傍聴者が、ハンドマイクも持ち込んで叫び続けた。(写真が残っている)
 総会議員たちは、為すすべを知らなかった。それは当然で、責められるべきではない。祈りの時、別のマイクからナンセンスなどとやじが入れば、その先の在り方など知るすべもない。議案の掲示や見解の表明などは不可能である。
 桑原重夫、大塩清之助たちの、あきれ果てた暴力支配、議場操作の結果であった。その後の教団総会は、すべて、その流れで行われている。現在でも、である。もちろん弱くはなっている。
 この臨時総会の終了時は、インターナショナル(起て飢えたる者よ・・・あーインターナショナル我らがもの)が合唱されていた。讃美歌は捨てよ、信仰は捨てよ、人民革命に立とうという声が、議場を圧したことになる。

3.以後の総会 開催出来ず
 「あれは総会ではない」という声が広がった。執行部は、総会だったと抗弁し、造反議員や問題提起者の圧力も利用して、十二月八日の臨時常議員会で『総会は有効に成立し、・・・質疑の途中で傍聴者も加えて討論集会に切りかえられ、議事に入ることなく、議長の閉会宣言をもって終った』という公式見解をまとめた。

(九・一、二事件から100日の表も参考に)
 造反の嵐は各教区に波及した。幾つもの教区で臨時教区総会が行なわれ、そのどれもが困乱した。ヘルメットに搖れた。血を流す場面、会場を断られるところ、流会するなどが相い次いだ。
 教団総会は二年に一度開催することになっている。
六八年十月 15回定期総会
六九年十一月 16回臨時総会
を経ているので、
七〇年十月  17回定期総会
を開かなければならない。
 そのためには
 七〇年五月頃 各教区総会を開催して、総会議員を選挙しなければならない。
 この各教区総会は、暴力がひど過ぎて開催出来ないところや、開催してみたが選出出来ないところが出てきた。
 東京、神奈川、京都、大阪、兵庫の五教区の総会議員(一七四名)が選出されない事態となり、総会開催は不可能になった。
 飯教団議長、木村知己書記、高倉総幹事は、この時点で信頼を失っていた。一部の造反学生や問題提起者からは支持が寄せられてはいたが。
 常議員の多くも、信頼していなかった。第一五回総会での決定を覆えされたからである。その経過をふまえつつ常議員会が開かれていく。その粗筋は表で示したい。
 
4.教団本部の移転
(1)一九七〇年の時点の教団役職は、一九六八年の総会で選出されている。教団丸を託するにふさわしい選出で、常議員会に限って見ても問題提起者と呼ぶべき人は数名しかいない。
 ただ飯議長、木村書記、高倉総幹事が造反に屈していたので、押しかける陪席傍聴者と呼応する形で、正当な議案をねじ曲げていった。
 教団の各委員会も、問題提起者のなぐり込み的介入がなければ、整然と行事をすすめていった。
 第二回宣教方策会議
 こころの友一五万部感謝会
 讃美歌二百万部発行感謝会
などである。

(2)教団本部(事務所)の移転は、こういう状況と併行で行われた。銀座(現在の教文館)から早稲田へ移った。
 日本基督教団に関係のある多くの組織、団体も同じビルに入った。関係者にとっては長い夢の実現であった。
 ところが、これが教団紛争のあおりを受けて、秩序ある移転にならなかった。最初につまづいてしまったことになった。
 開かれる常議員会や各委員会は、問題提起者が勝手に議場に出入りするし、暴力も振るったりしていた。事務室にも気ままに出入した。それが通例となってしまった。
 問題提起者は事務室にたむろすることになり、時に占拠もした。極左集団で当局に追われる人が、隠れ所にもした。
 こういう状況の中で事務室が整うのは無理である。会計なども整理がつかなくなった時さえある。
 移転当初は、それでも責任者たちは信頼出来たが、やがて問題提起者たちが指導の実験をにぎるようになると、その乱脈ぶりが増幅し、心配される事態となった。
 そこで心ある信徒が、そのことを強く呼びかけ合い、教師の年金のための原質には手を出させてはならない、と結集した。これが一九七六年第一九回総会における年金局設置の背景にあった。
 事務局運営の乱脈と会計の不透明は加速していった。
 この悪習を絶ち、経理全般をすっきりさせ、透明化したのは竹前昇総幹事である。三〇年にわたる悪慣習を断ち切った忍耐と努力は、教団史にしっかり印されねばならない。

<総会開催に関係深い常議員会>
月・日
名称
内容
1969
12・8
第8回常議員会 第16回教団総会は成立していた、と決定
1970
1・12
第10回常議員会 教団副議長に菊地吉弞、島村亀鶴をおすが辞退
2・24
第11回 吉田満穂を副議長に選出
10・6
第14回 総会開催A案、B案を否決、C案を決定
10・26
第15回 第16回教団総会の総括原案を作成
11・24
第16回 上の議案の審議を予定。定数不足で流会
1971
2・18
第17回 飯清教団議長辞任・吉田満穂議長就任、D案を決定
6・22
第19回 71年10月に総会開催すると決定
10・4
第20回 右の決定をとり消す
1972
2
第21回 教団問題協議会の動向を見て総会を考えるとする
3・15
第22回 72年10月に総会を開催すると決定
7・10
第23回 右の決定をとり消す
8・14
第24回 吉田満穂議長辞任
9・4
第44回常任常議員会 議長代行制を決定
10・23
第25回常議員会 島村亀鶴議長代行を決定、総会準備委員会構成
          ↓↓
1973
11・20
第17回教団総会