2008年1月10日木曜日

実録 教団紛争史 第四章 教団の質的崩壊

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫

1.九・一、二の歴史的位置

その当時の教会は、百余年の歴史を重ねていた。宣教師たちの伝道を継いで、プロテスタント教会として成長して来ていた。
 太平洋戦争の大試練を受けながらも、先達の苦闘によって、人口の1%に達する新旧教徒が居るまでになっていた。
 日本基督教団は、プロテスタント教会の中では、最も大きな教団としての矜持を保ちつつ責任を果たして来た。
 教師・信徒すべてが思っていたように、その働きは十分ではなかった。が、主の守りの中にあることも、確かであった。
 一般社会も、教会とコミットすることは無いとしても、教育、社会福祉などを中心に応分の敬意を持っていた。
 この総てが、九・一、二で崩壊に向ってしまった。
 礼拝を中心に主を仰ぎ、それぞれの持ち場に使わされて生きる。これが信仰生活である。罪を犯し、傷つき、再び礼拝に集う。これが信仰の希望である。これが破壊されてしまった。
 九・一、二の主役たちは、「教会は革命の拠点である」と主張し、実行し始めたのである。反政府、反体制でないものは教会ではないと絶叫して止まなかった。
 そして、ついに、飯清教団議長が、それに屈したのである。妥協させられてしまった。それは連鎖反応となった。勝ったと連呼する学生、教師たちは、(やくざ)まがいの脅迫や、ヘルメットでの乱入などで、うろたえた教師たちを変節させて行った。
 歴史的になかった事態、教会としての想定外の出来事に、あわてた教師たちが相次いでころんだことになった。
 参加した学生・青年たちの殆んどは、理論づけなどして無かった。極く少数のリーダーが、全共闘中核派や革マル派の理論を振り回し、「そうだ」と連呼したに過ぎなかった。
 一連の騒動が少し収まった時、彼らは行き場を失った。教会からも去った。その時から、教会は青年を失うことになってしまった。
 敗戦後、一貫して右肩上りだった教勢が、全く伸びなくなった理由である。歴史を停滞させることになった。

2.教団の会議制の崩壊
 九・一、二事件の十日後、教団の臨時常議員会が美竹、山手教会で行われた。
 九・一、二で飯議長が、教団総会の決定を覆してしまったので、その了承を得るためであった。この会の傍聴をした会場教会の平山照次牧師の見解を以下に抄録する。
 「日本キリスト教団は、1969年9月11日午後12時、私の眼の前で〈実質的に〉崩壊しました。
 教団の正式常議員会?は、出席議員の何倍かの数の姓名不審者も含む『万博反対者集団』に囲まれて、怒号と罵倒の一斉射撃を浴びながら開かれました。・・・・・
 最初『反博集団』の代表六名だけの傍聴を認めることになっていました。しかし、飯議長と高倉総幹事が、二階玄関で『反博集団』と折衝した結果、ついに数十名集団全員の出席を認めさせられたのでした。
 私は見ていました。一度に何人も立ち上っての激烈な発言、怒号、罵倒の中で、常議員会?は、司会こそ飯議長がしていましたが、会の運営は完全に『反博集団』によって主導権を握られていました。
 常議員の何人かの顔には恐怖と困惑と『反博集団』におもねるような表情さえ見えました。
 心理的圧迫の下で、かりに『万博反対』が決議されたとしても・・・・・・内容的に空しいものになります。私は、フッと拷問の鞭の下で意識もうろうとなって、無実の罪を自白させられる被疑者の光景をそこに見ました。
 私自身の意見は、靖国、万博、安保等に反対する点でこの『反博集団』と同じであり、長年、民主勢力と共に激しく闘い続けて来た者だが、この集団のやり方に反発と憂慮を感じます。・・・・・・」
 常議員会は常議員によって運営される。教会役員会は選出された教会役員によって開かれる、という、あまりに当然な原則が、吹き飛ぶように崩壊したのである。
 教憲第四条の「本教団は教憲および教規の定めるところにしたがって、会議制によりその政治を行う」は、無残に破られたのである。

3.教団の信仰の崩壊
 教会の信仰は、始まりから異端にさらされて来た。聖書がそれを明らかにしているし、教会の歴史もまた、その事を示している。異端と闘い続ける真剣な努力なしに、キリスト教はない。
 九・一、二事件をきっかけに、政治的プロパガンダが持てはやされ、万博反対イコール信仰という思い込みが蔓延してしまった。勢いがあり、暴力も伴って、学生・青年たちを熱狂させた。指導した教師も間違えてしまった。
 万博問題が冷えてしまった後は、信仰の崩壊だけが一人歩きすることになった。信仰議認、聖書正典、三位一体を否定することになってしまったのである。勿論、正面切って、三項を否定したら全くキリスト教とは無縁の人となる。この三項は、少しでも揺らいだら、日本基督教団ではなくなる程のものなのである。
 端的に言えば〈イエスはキリストである〉かどうかの議論といい換えてもよい。この〈イエスはキリストである〉に条件をつけたのである。万博に反対する、資本主義に反対する場合にだけイエスはキリストである、としてしまった。
 これらを飲み込んで了解した上で、暴力にも主張があるという戸田伊助議長が登場することになる。従って、この時代、教団は信仰に生きてはいなかったのである。

4.教団の伝道の崩壊
 伝道は、伝えたい側、教会教師、信徒の信仰がスタートである。この喜びを伝えたいというモチベーションがなければ始まらない。
 自らが確信を失った時、復活したイエスが信じられなくなった時、全く力を失なう。失なうだけではなく拒否的にならざるを得ない。問題提起者が教団を支配していた20余年間は、伝道は禁句だった。筆者を含めて数人の常議員は、覚悟を決めて「伝道が必要」と主張したが、大
変なやじ、怒号にさらされた。伝道は教勢拡張主義(岩井健作、外)だと言うのである。
ただ、このご粗末な伝道論議は、各個教会にはあまり届かなかった。届いた場合でも、はねのける力が与えられている教会が多かったのは、主のあわれみであった。
 教団における伝道拒否が停滞を招かない筈はない。戦後の教勢統計の概略をグラフで示してある。1970年を境に、教団は全く伸びていない。プロテスタント全体と、カトリックも含めたキリスト教徒全体は確実に伸びているのに、である。

5.万博反対の論旨
 九・一、二事件は、万博反対が中心であった。その後の紛争や論争の場面でも、枕言葉の如くに用いられた。そこで問題提起者・堀光男、大塩清之助などが出した、おびただしい論考やアジテーションを検討しておく必要がある。
 反万博の理論の柱は、①万博は大資本の繁栄のおごりである。②ベトナム特需ではないか。つまりアジアからの収奪である。③大阪地域には公害が拡がっている。④万博工事で四人もの労働者が死んでいる。となっている。貧しい主張の柱ではある。現に、20年後に開催された1990年大阪花の万博の際は、これらの人びとは、何の異議も称えなかった。
 ベトナム特需を除けば、事情は全く同じであるのに、一言も主張しなかったのは、万博反対の理論が、いかに、いい加減のものであったかを示している。
 しかし、これで、日本基督教団は徹底的に揺さぶられたのだから、許し難いと思う人が多いだろう。
 もともと造反者たちは、混乱を起すことが目的だったので、自分達の主張などは、何でもかまわなかったのである。