2007年11月10日土曜日

実録 教団紛争史 第三章 暴発= 九・一、二事件

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫

 教団紛争は一九六九年九月一日に始まった。と言うより暴発したと言ったほうが正確に理解できる。
 東京・銀座の教文館会議室で行われた会による。(当時は教団本部も同じビルにあった)この会で起った事すべてを含めて 九・一、二(きゅうてん いちに)事件と呼ぶ。呼び名の統一は歴史理解に欠かせないので、確認しておきたい。
 少し余談になるが、九・一なら関東大震災の日になるし、九・一一ならニューヨークのテロ事件になる。教団紛争と暴力の発端は九・一、二である。
 
1.九・一、二事件の概要
 一九六九年九月一日午後一時半から、二日午前八時十分まで、十八時間四〇分にわたって行われた。
 出席者 飯清教団議長、木村知己書記、高倉徹総幹事、常任常議員の高崎毅、島村亀鶴、大村勇、森里忠生、北森嘉蔵、小川清司、秋山憲兄、長谷川保(一日目)
 問題提起者 土肥昭夫、桑原重夫、大塩清之助、吉松繁、徳永五郎、辻建( 以上教職)小林俊彦、桜井秀教、小西柱、管沢邦明、高沢充朗、冠地文子、古谷、清水、宇野、中野、高橋 他
 参加者全体は一五〇名と報告されているので、前記以外にも多くが参加していた。写真も残っている。
 会全体は、「大衆団交」という、当時のはやりの形となった。分かりやすく言えば、紅衛兵ばりの「つるし上げ大会」である。
 一九時間も、正規の休憩時間なしで追求する。へとへとになって、心にもない事を言わせて勝利とする問題提起者たちの作戦である。
 この会については、遂語録的な議事録が残されている。ガリ版刷りで、その分量は新約聖書の三分の二に相当する。二ヶ月後の十一月には完成しているので、直後の生まなましさと正確さは信用していい。教団宣教研究所の出版である。 
 読みすすめば分かることだがつるし上げだから、文意不明が多い。
 大村勇はNCC議長として万博キリスト教館に責任があるので、主張は曲げない。
 北森嘉蔵テーマ委員も主張を曲げない。くやしくなった学生が、北森嘉蔵をなぐった。時間を経て、二回目もなぐったのである。暴力が教団の最高責任者たちのいる所で振るわれたのである。そして会は中止でなく続いたのである。

2.「九・一、二の記録」

 (1)この議事録は、教団紛争を本気で論ずる人には必読である。教団史を志ざす人にも必読である。が大部分の教職信徒には読了不可能だろう。
 意味の通じにくい文を読むのは忍耐を要するし、常議員が一方的につるし上げられている記録は、気分がよくない。きちんと答えていても、その部分は記録されていない。ヤジで消されているので。
 そこで、この記録のさわりについてだけ紹介しておこう。
 それは、この記録がテープから起こしたものなので、不規則発言がそのまま入っていることについてである。もちろん、一斉に騒ぎ立てるので、聞き取れない場合も多いが、かなり忠実に再現している。
 その数を以下に示そう。

ヤジ!       一五〇回
ヤジで聞こえず    八五回
ナンセンス     一〇〇回
イギナシ       五〇回
そうだ        四五回
怒号         二〇回
フザケルンジャナイヨ 一五回
ナメルナー      一五回
バカヤロー      一〇回

他に、どうなんだ、立てよ、答えになってない、今まで何してた、多少のいざこざ 他がある。

 (2)この議事録の巻頭言は次のようになっている。
 「一九六九年九月一日、二日の一九時間討論集会は、教団の歴史にとって、その評価はもう少し年月がかかるでしょう。大きな意味を持つものだと思います。あの集会、あの十九時間には、色々なことが起こっています。あの場にずっと居た方も、その様子をあとで聞いた方も、それぞれ色々な感想や評価をもち、それを、あるいは個人的に、あるいは公に語って来まし
た。・・・・・・結局のところは、各自が主体的に出来事に参与して行くことにつきるのではないでしょうか。
 そう考えた時に、私はあの集会の録音テープと、再生した原稿を、単に記録として宣研に保管しておくだけではいけない。・・・この資料を公開し、出来るだけ多くの人々に読んでもらおう。その上で何が起こったのか、何が語られたのかを考えてもらおうと思ったのです。・・・」

(宣教研究所幹事岸本和世)
 紛争初期の荒れた会の議事録は、あまり残ってはいない。まとめてみると、内容が無いからである。まとめきれない場合も多い。その中で、最大のポイントになる九・一、二の議事録が、それも遂語録の形で保存されているのは、それ自体が重要である。

 (3)この議事録は、教団の宣教研究所が作成したものだったが、現在は宣研でも見つからない。
 そこで九・一、二の十周年の時に、教会連合が増し刷りをし、少し見易い印刷になって発行されている。
 この版には、九・一、二事件当時、教団宣教研究所の委員長であり、印刷時には教会連合の議長団の一人でもある市川恭二が序文を寄せている。
 「当日、私は現場に居合せて状況をつぶさに目撃した。翌九月二日には、大阪教区で万博キリスト教館出展問題を議題とする臨時総会が開かれ、私が万博推進賛成の立場から発題を行うことになっていた。九・一、二のこの集会で、私の理論を破る理論が現れるなら参考に資したいと期待感から、私は手続きを踏んで陪席したのである。・・・
 私は完全に裏切られた思いであった。当日、あの場で聞かれたのは、およそ理論とか論理とかの名に値すべき何ものでもなかった、と少なくとも私には思われたからである。・・・青年からの側に立ち、彼らと全く歩調を揃え、場合によっては彼らを使嗾して教団当局者に向わせた教職者たちの姿も、かなり見られた。
 いやしくも御言の役者として立てられた以上、毎日曜日の講壇から、福音を語り、十字架を説き、贖罪の恩寵を指し示す、それが牧者たる者のつとめである。ところが、当の自己自身には、要するにその体得がない。
 従って福音を語り十字架を高調すればするだけ、魂は白け、空虚は増す。内に持てるものは福音と似て非なるヒューマニズムの愛の思想である。そこで、体制破壊・虐げられし者の解放を呼号する反権力的時流に乗ることによって、魂の空虚を満すべき代替物を求めるのである。・・・」

3.九・一、二からの一〇〇日
 歴史の示す所に従えば、大事件は起った直後が大事である。国際的な紛争も、国内的な改革も、さらには教会の歴史に起った数々の出来事もである。
 そこで、九・一、二についても、起った後について、その一〇〇日を検討しておきたい。中心になる動きを表にしてある。
 飯議長、木村書記(副議長は欠員)、それに高倉総幹事が、問題提起者の要求を飲んで、教団総会決定を否定してしまったのが九・一、二である。
 その後の扱いは、当然ながら困難を極める。一〇〇日の間に五回の常議員会が開かれている。(一回は示してない)
 信徒の代表的な人々は、連名で総会開催反対を呼びかけ冷静だった。が、通じなかった。
 ひと度、暴力に屈した人は、次の発言と行動が、徹底的な制限をうけることになってしまう。九・一、二の記録にある飯議長と木村書記の発言は、事前に問題提起者と取り引きが行われていたかの如くである。
 AINで示したもの以外に各教区、教会へも、反万博キャンペーンが展開され、大混乱を起こした所も多かった。

出来事の名称 内容の要点
A 9 1-2 九・一、二事件(銀座・教文館) 大衆団交の形で常議員のつるし上げ。
B 3 東京神学大学教授会声明 九・一、二で北森教授が、なぐられたことへの抗議
C 8-11 全国教職者大会(箱根) 二年の準備、千人集まる伝道協議。九・一、二は説明があった程度
D 11-12 第五回臨時常議員会(美竹、山手教会) 陪席者多数、乱入の形で(平山照次見解がある)
E 15 高崎毅教団副議長辞任表明 七日前に就任したばかり。辞任はすぐには受理されない
F 22 臨時総会開催反対九氏声明 臼井良一、木本郁、高見沢潤子、西村次郎、長谷川保、林敏子、正木良一、桃谷勘三郎、山崎宗太郎
G 26-27 第六回臨時常議員会 万博問題再協議のための臨時総会の開催を決定(?)
H 10 3 万博討論集会(山手教会) 東京教区社会部主催
I 6教団教師検定試験粉砕される 菅沢邦明他が試験会場に乱入。答案用紙を破り粉砕
J 11 4 第七回臨時常議員会臨時総会の開催決定を再確認
K 19-20 東京教区第四六回臨時総会(山手、西片町教会) 問題提起者がヘルメット姿で議場を支配
L 24 東京神学大学バリケード封鎖される 学生自治会は、全共闘に侵食される。各目は九・三声明反対
M 25-26 第一六回教団臨時総会(山手教会) 乱入者は怒号で議場支配 勝利宣言。何も議せず、何も決まらない
N 12 8 第八回臨時常議員会 一六回総会は成立していた、と結論。総会になってはいないという見解も

2007年9月10日月曜日

実録 教団紛争史 第二章 教団紛争の前史

日本基督教団常議員

福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫


 教団紛争は一九六九年九月一日に始まった。この日、問題提起者一五〇名と教団三役常任常議員との会議が行われ、大変な暴力的状況の中で飯清教団議長が、総会での決定を覆えしてしまった。
 正式な決定を覆えすというのは組織の破壊である。それが行われてしまった決定的な日となった。紛争の始まりである。
 ここに至る前史については若干の検討をしておきたい。後にも触れるが、問題提起者の行動は時の流れに乗ったものであることを示したいからである。「戦責告白」は、時の流れに乗ってしまったことへの反省であった筈なのに、である。

1.世界の流れ
 一九六〇年代後半は、ベトナム戦争のどろ沼化による西側諸国のとまどい。ソ連のチェコ侵入に伴う社会主義の落日などがあり、世界史不透明の時だった。
 中国は文化大革命を始めており、紅衛兵による暴力つるし上げが、連日放映された。フランスではカルチェラタンを発火点とする若者・学生の暴力デモが繰り返された。
 キング牧師、ロバート・ケネディが、相次いで暗殺された。
 第二次大戦後に築かれた東西対立による均衡、武力によるバランスが、それぞれの主体を含めて崩れ始めていたのである。
 「ベトナム戦争に反対した人だけが、ソ連のチェコ侵入に反対出来るし、しなければならない」(長州一二)に代表されるように、世界の混沌ぶりに識者も身動き出来にくくなった。
 さらに時代が進むと、ソ連の崩壊があり、日本の評論も同時崩壊することになるのである。

2.日本の流れ
 一九六〇年代後半の日本は、世界の状況をまともに受けることになっていった。
 東西対立に崩れが始まっていても、日本の55年体制は崩れず、いわゆる自社対決の構図であった。
 その中で、七〇年安保反対運動は盛り上らず、六〇年安保反対が岸内閣を退陣させたのとは大変な違いであった。
 原水爆反対運動は原水協と原水禁に分裂して互を非難し合っていた。社会党と共産党の対立は、諸運動の大幅な後退をもたらした。
 閉塞感がただよい、護憲を掲げる力の後退を見越して、自民党は数回も廃案になっていた「靖国神社(国家管理)法」案を国会に提出した。国会の勢力図と政府の政府の根回し
など成立の危険もあった。
 キリスト教界は、信教の自由のために、上げて反対運動に立ち上った。日本基督教団も文字通り持てる力を結集した。戦後最大の政治的運動になり、法案は国会で廃案となった。

3.学生運動
 靖国法案反対運動の後半から、学生・青年を中心に、この闘争は体制の中での批判であり生ぬるい。という強い声(全共斗中核派など)があって、全国的な反対運動は分解していった。
 この学生運動は全共闘がリードしていた。やがて学園紛争と結びつき、万博開催地大阪を中心に反万博運動、反体制(ゲバルト)運動として急速に拡大していった。
 靖国法案反対で結集した信徒は、足もとをすくわれた形となった。これ以後、教団は政治課題で結集する力を失った。大変な損失となった。
 この靖国反対運動の直前に東大医学部紛争(一九六八・一)は始まっていた。翌年一月の安田講堂封鎖解除に機動隊八千が出動したが、一年間の東大は無政府状態だった。
 この東大紛争は全国の大学に波及し、大学学長や理事長に集団で圧力をかけ、つるし上げて、大学運営(月謝・自治)などについて権利要求を行った。
 全学連は運動から姿を消し全共闘が主導するようになり、極左集団となって、武闘もいとわない、と主張し、実行した。三菱ビル爆破事件などは時の教団議長までが支持することになってしまった。
 大学紛争は高校にも及んだ。大学をまねて、全校集会や集団交渉などで、不満な教師を糾弾したり、安保反対を叫んだり、卒業式を紛砕したりした。

 大学でも高校でも、しきりに保守反動独占資本という言葉がもてはやされた。教授や教師は保守反動だと、紛争の渦中に飛び込んでいった。相手が自己批判するまで叫び続けたというのが実情だった。
 数年を経たら、教師たち自己批判をした人も、学生たち自己批判をさせた側も、その事を忘れるか、無視していた。空しい程に一過性であった。
 学園紛争はキリスト教主義学校も例外ではなかった。暴力も振るわれた。その上に、ボンヘッハーもヒトラー暗殺を目指したではないか、などという牧師、教授たちの応援で、引くに引けなくなってしまった。
 全国の大学、高校の学園紛争が殆んど沈静化した後も、キリスト教関係学校、神学校は、紛争を続けることになってしまった。暴力礼賛の牧師教授たちの後ろ立てもあって、一部は極めて先鋭化していった。

4.鈴木正久議長
 鈴木正久議長が選出されたのは第一四回総会(一九六六年)で、再選されたのは第一五回総会(一九六八年)になる。
 当時の教団の中で、教団の体質改善を主張する人々のリーダーとして期待されていた鈴木議長は、就任直後から積極的に諸課題にとり組んだ。
 平和護憲、靖国問題、戦責告白、沖縄合同、万博参加、機構改正などである。どの一つも大きなテーマであり、賛否も激突型にならざるを得ないものである。
 そのどれもが、鈴木議長なら何とかなる、という期待もあって、全部を展開したが、結局は混乱の元になってしまった。
 病気(後急逝)退場は残念なことであった。が、まとめきれない課題を提示し過ぎたという、組織の長としての責任は大きかったと言わざるを得ない。
 特に、再選の第一五回総会は一九六八年十月の開催であり、前記の如く学園紛争はすでに大学神学部に及んでいた。
 もっとも、学園紛争の波及度と深刻性は、議場全体も見抜けなかったことになる。教団全体の責任と言ってよいだろう。
 同じ総会で報告され承認されている「戦責告白」は、時の流れに流されてしまったことへの反省であった。そのことが、この総会期では全く生かされなかったことになる。
 思いはあっても止まることを知り、そのように運営していくのが責任者である。
 教会は礼拝を守り、福音を宣べ伝え、聖礼典を行い、愛の業に励む所である。その集合である日本基督教団も、教会の業を助けることが基本でなければならない。
 その意味で、第一五回教団総会は、教会が本筋からずれ始めたことを、その後の経過も含めて示している。
 前回の表で、鈴木正久議長は、良い志が失敗した、と示したのは以上の経過をまとめた言葉である。

5.提起された課題
 鈴木議長時代に提起された課題は歴代の中でも最も多かった。目立つ六項目について表で示したい。これらの中には、紛争中ずっと叫ばれ続けたものもあるし、時々は噴出するものもある。その点は順に扱うこととしたい。

項目 鈴木議長の初期 後期とその後
機構改正 教団の働きの多くを教区へ
教団の地方分権
教区を整える前に暴力と造反
それぞれに=勝手となる
平和護憲 国内は護憲勢力の結集
国際的にはブラハ会議や原水爆
メンバーの内部対立で動きにくい
運動が迷ってしまった
万博参加 キリスト館を出展する―否決
NCC が行うのを支持する―可決
うまくいく筈がない
大混乱の引き金になった
戦責告白 鈴木議長名で出す。
案文については機関の了承なし
反論が多く、総会通過に懸念
五人委で調整した
沖縄合同 本土復帰前に実現
沖縄・本土ともに喜ぶ
問題提起者がとらえ直しを提案
現在も未解決
靖国反対 信教の自由の闘いとして盛り上る
戦後最大の運動となる
問題提起者、とくに全共斗中核派に
より運動が 分裂

2007年7月10日火曜日

実録 教団紛争史(一) 第一章 教団紛争の輪郭

日本基督教団常議員
福音主義教会連合常任委員

  小 林 貞 夫

1.執筆の動機

 標題の記録を書き残さなければいけない、と、強く意識し始めた動機は以下の四つである。
(1)日本基督教団の歴史は66年になる。その半分以上にあたる38年は、いわゆる教団紛争の歴史である。教団に属するすべての教会・信徒は、このことを避けては通れない。
 教団とは何か、紛争の内容は何かについては、本文で明らかにすることになるが、教団紛争は教団にとって、最大の出来事だったのである。
(2)この教団紛争について、知らない世代・人が増えてきた。時日の経過で止むを得ない面もある。
 しかし、意図的に忘れようとしたり、係わりを隠そうとする人もいる。発言したことや行動したことを無かった事のように振舞う傾向も目立ってきている。これを許していたら教団形成は出来ない。
(3)教団紛争の通史は目下のところ見当らない。部分史もないと言ってもよいだろ
う。志している人はいるかも知れない。が、それは先の話である。とすれば、教団正常化を目指した同志的集団である福音主義教会連合に属する者に責任がある。
 不十分を承知しつつ先鞭を切る由縁である。後に続くことを願いつつ。
(4)日本基督教団年鑑には「教団の記録」というまとめが載せてある。これを読めば教団の概略が分るというたてまえで書かれている。が、そ
れは無理である。紛争を意図的に隠すからである。
 時の教団のあり方を正当化するのは、組織としての当然があり、問題提起者が圧倒的だった
20年間ほどについては止むを得ない面もある。
 牧会手帳なども同列である。これらが、そのままでるのは良くない。正すべきは正さねばならない。

2.執筆にあたって
(1)標題に実録とつけた。目で見たこと、耳で聴いたこと、体験したことを中心に展開したいという強い思いの末である。従って分り易くなければいけないという点にもこだわりたい。
 そうでなければ、あえて先鞭をつける意味はうすい。という思いが、この実録という異例の中に含まれている。
(2)38年の紛争中、筆者が教団常議員として係わったのは19年間である。もちろん教区や分区、教会を通して、それ以前にも多少の係わりはあった。が、実録の主旨にも照らせば、紛争後半部にウエイトがかかるのは当然である。
 紛争前半期については、キリスト教年鑑を始め、比較的正確な記録が残されていることをつけ加えておきたい。
(3)紛争の基底は暴力である。暴力は体験した人と、話として聞いた人とでは、全く別のものになる。そこを、少しでも埋めておかないと、後の人が見誤ってしまうことになる。
 個人個人の発言も、暴力の威圧によって少しずつずれる。集団や会議の方向も妥協という変質をする。この部分を何としても書き残さねばならないのだが、これはすでに文学表現の領域になる。
 それでも、筆者は本気で、この部分に立ち向いたいと願っている。
(4)紛争に係った人たちの呼び方を統一しておきたい。
A 問題提起者 紛争の主役である人びとを、こう呼ぶことにする。造反派という呼び方もある。もともと毛沢東の造反有理から発して、暴力革命も辞さず、という運動が教団にも及んだのであるから、造反派のほうが実体を示しているという見解もある。
 ただ教団内の記録などで最も多く用いられているので、今回は統一して用いたい。
B 教会派 福音主義教会連合に結集した人や、小島誠志・山北宣久教団議長を強く推進した人びとをこう呼びたい。伝道派と呼ばれることもある。最近は教憲・教規派と呼ばれることが多い。
 初心の方に一言つけ加えれば、問題提起者たちと鋭く対立し、その誤りと強く闘ったのは教会派だったのである。
C 中間派 AB何れにも属さなかった人をこう呼びたい。この中には、地方の教会で教会形成に励んでいて、ほとんど何も知らないで経過した人と教会が入る。
 中間派の中には、紛争の内容については理解した上で、中間点に立つように振舞った人びともいた。こういう人の多くは、採決に当っては問題提起者に同調せざる得ないことになった。結果的には、紛争を長びかせる原因となった。次項でも触れ、具体的展開の中でも、たびたびとり上げることになる。

3.教団紛争とは
 教団紛争とは何であったのかは、本稿の終了を待たなければならない。しかし逆に、輪郭を示さなければ展開を示すことも難しい。
 そこで、教団、紛争、暴力について一応の前提を示しておきたい。
A 教団 
 ここで示す教団とは教団本部のことである。日本基督教団総会議長、副議長、書記の三役。教団事務局とその責任者である総幹事。出版局、年金局などの組織。教団総会、常議員会、各委員会などのことを指している。
 それらの機関が、会議を行ったり、業務を果したりすることをすべて含んで教団と呼ぶことにする。
B 教団と教区の関係
 紛争に関しては、教団と教区は相似的であり、教団で起ることは、似たような形で教区でも起っていた。その逆もあった。
 ただ、紛争の後期になると教区としては主張がまとまる傾向を見せた。その結果として、教区全体が問題提起者の主張にそう方向を目指した所が現れた。北海、奥羽、京都、兵庫、東中国、西中国、九州教区が相当する。
 当然、教会派的主張を行う教区もある。東京、西東京、東海、中部、四国教区が相当
する。

4.暴力=紛争の核心
 先にも示したように教団紛争の核心は暴力である。暴力によって教団運営がゆがめられたのである。教団紛争を暴力展開の歴史であると言い換えることが出来る。
 暴力は物理的暴力と精神的暴力となって現われた。
 物理的暴力の第一は、ヘルメット、竹竿などで議場を混乱させる。時には議場で殴るけるに及ぶものである。
 第二は議場妨害である。議長団席をとり囲んで進行させない。マイクの操作で正規の発言は一切聞えないようにするなどである。
 第三には威嚇である。発言者の隣に立って悪口を言い続けたり、問題提起者の意にそわない発言に向けての一斉のやじなどである。
 精神的暴力とは、精神的圧力や脅迫をかけれらた人が、ひるんで見解を曲げることである。さらに脅迫者の気に入るような発言を言ったり、行動することになってしまう場合もあった。
 イエスはキリストではないという問題提起者に向って、それも分るが、という発言をする。信仰義認は誤りだと主張されても異を唱えない。そういう中間派の人は、長く責任を問わなければならない。

5.紛争経過表
 始めて教団紛争について知る人のために、経過表をまとめた。ここでいう悪(罪)とは、神より人間の考え(政治文化等)のほうが大切だと考えることである、念のため。



年代 教団議長 どういう様子だったか 暴力の様子
ひと言で言えば 例えば
1966

1969
鈴木正久 良い志が失敗した戦責告白も万博参加も出し方を間違えた ひどい暴力はなかった。
1969

1971
飯  清 悪が芽生えたとき 総会での決定を議長が破ってきた 暴力によるつるし上げが多発した。血を流したことも。
1971

1973
吉田満穂
島村亀鶴
大混乱に終始 何を提案しても何も決まらない 正しい提案は糾弾され、撤回させられた。
1973

1978
戸田伊助 悪を目指し暴力を肯定 聖書正典、信仰義認、信仰告白を否定した 暴力を礼讃した。それが会議の多教訓となった。
1978

1988
後宮俊夫 悪が定着したとき 問題提起者がすべてをリードした 正しい発言には、必ず暴力の妨害があった。
1988

1992
辻 宣道 悪に利用された 議長一人だけが伝道を主張した暴力的脅迫で議事が決り、問題提起者の思い通り。
1992

1996
原 忠和 大地震で悪が増巾 阪神大震災の初期対応はでたらめだった ナイフ事件が起り、教団の信頼は地に落ちた。
1996

2002
小島誠志 悪をしりぞけた 伝道推進の決議もいくつか出来た 暴力があっても負けなくなった
2002
山北宣久 良い志を目指す教憲・教規が教団の大前提と主張 暴力を排除したい、と志ざしている。